「イケメン」という言葉は、なぜだか不思議と繰り返したくなる。

“令和のイケメン像”は内面も大事?秋元康企画・原作ドラマ『もしイケ』最終回に注目
(画像=『女子SPA!』より引用)

『もしも、イケメンだけの高校があったら』(テレビ朝日)公式サイトより

 イケメンばかりが集まる学園を舞台にイケメンたちが奮闘するドラマ『もしも、イケメンだけの高校があったら』(テレビ朝日系で毎週夜11時。以下、『もしイケ』)が、3月19日に最終回を迎える。

 まさに何度でも「イケメン!」とわちゃわちゃ騒ぎながら楽しめるような本作だが、どうやら、気楽に見てばかりもいられないようなのだ。ここには爽やかで軽快なビジュアルとは裏腹に、熱く泥臭いイケメンたちによる人間ドラマが所狭しと盛り込まれ描かれているからだ。

 今回は、「イケメン」をこよなく愛し、さまざまな観点から考察を続ける筆者・加賀谷健が、本作が意図する「令和のイケメン物語」を紐解いていきたいと思う。

令和版イケメンパラダイスに感じるもの

 令和にもこんなイケメンパラダイスがあったとは!

 その名も私立美南学園。ここには日本トップクラスのイケメン高校生が集う。教室にはいくつもの女優ミラーが設置されていて、イケメンたちがいつでも自分の顔をチェックできるようになっている。校訓は、「面武両道」。顔面偏差値至上主義の下、精神も同時に鍛えるらしい。登下校時にはそれぞれ推しメンの周りに女子たちが群がり、まるでアイドルとのチェキ会を楽しむように記念撮影を求める。さらに学園には「イケメンの素」の秘密が隠された泉にまつわる伝説まである。

 今や年相応にダンディーになった生田斗真や小栗旬が、それはそれは爽やかイケメンだった頃が懐かしい『花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜』(2007年、フジテレビ系、以下『イケパラ』)以上に徹底された「令和版イケメンパラダイス」であることは間違いないけれど、なぜだろう、少しだけ息苦しさを感じるのは。

『イケパラ』がまだ平成の緩やかなイケメン地帯だったのに対して、『もしイケ』の場合、それはシビアな戦場地帯になっていて、ここには非常に作為的な意図が周到に張り巡らされている。

秋元康流の視点とギミック

 企画・原案が秋元康だからすぐに納得がいく。数々の女性アイドルを独自の方法論でプロデュースしてきた秋元ならではの視点を、『もしイケ』でそっくりそのままイケメン男子に転用したアプローチが随所に散りばめられているからだ。

 第1話冒頭、入学式での海老名校長(秋山菜津子)の式辞が非常に印象的だ。「ようこそイケメンの聖地へ!」と、何ともバカバカしい挨拶から、創立以来イジメがなかった理由を生徒がイケメンだからと説明し、しかもイケメンは「いかなる時も平等」だと言い切ってしまう。誰からも見られる存在で、誰とでも瞬時に目が合うイケメンは、妬みも僻みもないのだとも説明する。

 ともすると差別的な発言と受け取れる校長の式辞だが、でもこの校長があながちちんぷんかんぷんでもないのは、物語の外にある現実世界の状況を割と的確に言い当てているからだ。ムキムキマッチョなイケメン生徒ふたりが筋トレする姿を見て、取り巻きの女子たちが、「ずっと見てられる」と口々に言うのは、イケメンが見られる存在であると断定的に話す校長の式辞通りの現実をストレートに反映している。

 こうした時代性に目をつけた秋元の企画力は鋭く、世相を反映させながらも、秋元流のエンタメ作品とするための工夫を凝らすことを忘れない。年に一度開催される「選抜イケメン大会」は「AKB」の総選挙を想起させ、重要なギミックとして機能することになる。