第54回~土田真樹さん(映画ライター)
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

年間200本もの映画を見、韓国映画界に20年近く身を置く、映画ライターの土田真樹さん。しかし、韓国を訪れた理由は「近いから」、映画との関わりは「年に5~6本、映画館で見る程度だった」とのこと。そんな土田さんがいかにして現在のお仕事をされるようになったのか?「たまに若い人から韓国で働きたいと相談を受けますが、日本で経験を積んでからでないと通用しないよと言っています。でも実は僕は韓国でゼロから経験を積んだんですけど」と笑う土田さんに、劇場が集まる文化の街大学路(テハンノ)の事務所でお仕事を始めたきっかけや現在のお仕事について、お話を伺いました。

名前 土田真樹(つちだまき)
勤務先 ソウルスコープ 編集長
出身地 山口県
在韓歴 23年
経歴 大学卒業後、韓国の高麗大学大学院に留学し、朝鮮経済史を専攻。在学中に文化情報誌「ソウルスコープ」の日本映画紹介コラムを担当。卒業後は、編集者として「ソウルスコープ」の日英版他、韓国語版の映画担当。日本の映画関連の雑誌にも数多く寄稿。2010年よりKBSワールドラジオで「映画DEナイト」のパーソナリティを担当。その他「ゴッドファーザー」などの韓国語シナリオブックの制作や、ガイドブックの著作(韓国語)など、幅広く書籍制作に関与。韓国映画の日本語字幕の監修などにも携わっている。

留学、映画人との出会い、バブル崩壊、重なる偶然で映画の道へ

第54回~土田真樹さん(映画ライター)
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

当時の若者は「ソウルスコープ」を頼りに情報収集。
写真は「ソウルスコープ保存版」
高麗大学大学院在学中に映画監督のイ・ハギンさんに出会いました。「蒼天航路」(講談社)という人気漫画の原作者として有名な方ですが僕が知り合った頃は売れる前で、お金がないといっていつもうちに泊まっていました。また「映画芸術」という雑誌のイ・ヨンジュさんという日本語がお上手な方とも知り合いになりました。ご存命ならば90歳くらいの方で「うちに遊びに来なさい」と言って下さったので毎日遊びに行っていると、そこに出入りしていた映画評論家の方から「今度、ソウルスコープという雑誌を創刊するので日本映画のコラムを書いてみないか?」と誘われました。たまたま知り合った人たちが映画関係者ばかりだったことが私が映画に関わるきっかけでした。

第54回~土田真樹さん(映画ライター)
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

「ソウルスコープ日本語版」は現地発信の韓国情報の先駆け
「ソウルスコープ」という雑誌は映画だけでなく、演劇、音楽、イベント情報を集めた文化情報誌で、日本の雑誌に例えるなら「ぴあ」のようなものです。当時は日本文化開放前だったので今のように日本映画についての情報がありませんし、勿論インターネットでダウンロードして観ることもできません。

そこで日本映画を紹介するコラムを書くことになりました。自分の経験のためと思って引き受けたので報酬はありません。その後、無事に大学院を卒業しましたが日本でバブルが弾けて、戻っても就職できない状況になってしまいました。
それで「ソウルスコープ」に残って、「ソウルスコープ」の日本語版と英語版の2つの編集責任と日本映画だけでなく韓国で公開されるすべての映画を韓国人に向けに紹介する記事も書くようになりました。今でこそ韓国映画界には海外メディアがたくさん取材に来ますが、当時は試写会に行くと外国人は私一人です。非常に珍しがられて、名前を覚えてもらったりして得しましたね。

映画について語り明かした飲み仲間は、若き日のあの有名監督たち

第54回~土田真樹さん(映画ライター)
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

映画の担当になったのも特に理由はなく、入社して「何やる?」「何でもいいです」「じゃあ映画そのまま続ければ」ということで現在に至っています。

映画に対してはごく普通の興味レベルでしたが、前述のイ・ハギンさんを通じて知り合った映画界の友人たちから「今度新しい映画を撮る」「この間作った映画がコケた」という話を聞くうちに映画に関心を持つようになり、アウトサイダーの外国人ではなく韓国映画界の人脈の中に自分自身がいつしか入っていたんですね。
そこから、ただ映画が楽しいというだけでなく、この映画人たちや作品をきちんと紹介していけるか、マスコミとしての責任感を意識するようになりました。始めた頃は、金はなかったけど時間はたっぷりあったし、みんな20代30代と若かったから映画人と飲んで話すのは楽しかったです。

「スキャンダル」のイ・ジェヨン監督は当時学生で、こいつはビッグになるなと思いました。「8月のクリスマス」のホ・ジノ監督、「華麗なる休暇」のキム・ジフン監督も助監督時代で、当時の飲み仲間が有名な監督になりましたね。僕はそのままですけど(笑)。

第54回~土田真樹さん(映画ライター)
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

一番好きな映画はイ・ジャンホ監督の「馬鹿宣言」(1983年)です。何がすごいって言葉のないノンバーバル映画なんですよ。制作当時の全斗煥(チョン・ドファン)政権下では検閲制度があり、反政府的だと罰せられることもあるので、あえて台詞を入れませんでした。

日本では政治的なことをほとんど意識しませんが、韓国では言論の自由を抑圧されていたことがすごくショックでした。その対抗策を抵抗ではなくパフォーマンスで表現した「馬鹿宣言」はすごい映画だと思います。

以前の韓国映画は反体制のため、民主化のためという意識で制作されましたが、いつの間にか日本のようになりました。多様性が広がったと言えます。ただ、かつての映画制作費は今の10分の1、でも映画制作そのものが映画人の生きがいであったように感じました。

90年代末から日本で起こった韓国映画ブーム

日本向けに韓国映画を紹介し始めたのは1990年代末頃からです。「8月のクリスマス」「シュリ」で一時韓国映画がブームになりました。韓国映画界に日本人がいると噂が広まったようで日本からの仕事が急に増えました。同時に日本人ライター、もしくはライター志望の人が韓国にどっとやって来ましたが、今は、かつてに比べて激減していますね。もちろん韓流ブームが去って、仕事量が減ったことも大きな要因のひとつですが、日本の常識で世界は動いていないということもあるでしょうか。

韓国は日本のようにきっちりしていなくて大雑把。約束はあってないようなもので、取材当日のキャンセルはしょっちゅうです。日本的に考えると有り得ないことですが、そうでない世界があることを常に頭の中に入れておかないとダメですね。僕は今でも万が一取材がダメな場合の次の策を考えておくようにしています。信用できないという言い方には語弊がありますが、韓国では何が起こるかわからないし、その時、何ができるかを考えておかないと仕事に穴があいてしまいます。仕事のやり方は日本とは随分違うと思いますよ。

第54回~土田真樹さん(映画ライター)
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

旬のスター、チャン・グンソク
日本的なシステムはよい部分もありますが、日本はどうでもいいようなことに規制が多いです。また合理的でない部分もあります。例えば、記者会見が始まると、カメラマンは写真撮影ができないにも関わらず会見の始めから終わりまで地べたに座らされて待たされるのが慣習です。

先に撮らせて退場させるか、フォトタイムが始まってから呼べばいいのに、合理的じゃないと韓国のカメラマンはよく怒っています。日韓で仕事をしていると、慣習の違いを感じますね。

日本に韓国映画を紹介する場合は役者ありきです。映画そのものよりも誰が出ているかが重要。ペ・ヨンジュン主演「4月の雪」は韓国では100万人入っていないですが、日本では260万人の大ヒット。これはちょっと違うなと感じます。

ただ、映画の面白みは時代とともに変わっていきます。時代を越えて面白いのはそれこそ不朽の名作ですし、3年前の映画が今おもしろくないのは当時がそういう時代だったということ。映画は生き物でリアルタイムです。

だから日本人にとってリアルタイムで人気があった韓国映画が、韓国で受けなくても当然だと思います。役者でも映画でも旬の時期があり、時期を逃すと価値が落ちてしまいます。かつてクォン・サンウが人気でしたが、今はチャン・グンソクが旬です。
しかし10年後の30代のチャン・グンソクが見たいかといえばそれはわからない。映画だけでなく、すべてトレンドの中で動いていると思います。

映画の制作者と観客のつなぎ手として「誰もが理解できる言葉で」

第54回~土田真樹さん(映画ライター)
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

KBSワールドラジオ「映画DEナイト」
今、KBSワールドラジオで「映画DEナイト」という番組を担当しています。ラジオの仕事は初めてで、非常に緊張しました。経験がないので断ったのですが、ラジオならどんなに髪ぼさぼさでも構わないので、まあいいかということで(笑)。韓国映画の今を語るというコンセプトで始めましたが、はじめは評判が悪く、日本で公開されるような映画を紹介してほしいと言われました。

でもそんな番組は日本にたくさんあって、わざわざ韓国発で僕というフィルターを通す必要がないと思って、月に2回は映画紹介、残り2回は雨の名場面特集、クリスマスの映画特集などテーマ特集やゲストを招いたりしてバラエティを持たせることにしました。