1970年から現在まで42年間に渡り、韓国各地を巡りながら地方や都市の風景、日常の手仕事である民芸の現場、またそこに暮らす人々の生き生きとした表情を撮り続けてきた写真家・藤本巧さん。渡韓回数は70回を超え、4万7千カットあまりをレンズに収めてきました。2012年8月22日~10月1日まで景福宮(キョンボックン)の国立民俗博物館にて自身の作品100余点を集めた写真展「韓国を愛する巧 7080 過ぎ去った私たちの日常」が開催中の藤本さんに、これまでの活動のエピソード、そして韓国へ寄せる思いを、会場となる博物館内で伺いました。
名前 藤本巧(ふじもと たくみ)
職業 写真家
年齢 63歳(1949年生)
出身地 島根県
在韓歴 70余回
公式サイト www.f-takumi.com
経歴 1970年から韓国の風土と人々を撮り続ける。著書『韓くにの風と人』(2006年、フィルムアート社)ほか三部作、『韓くに風の旅』(1987年、筑摩書房)、鶴見俊輔共著『風韻 日本人として』(2005年、フィルムアート社)をはじめ、雑誌・新聞連載にNHK『アンニョンハシムニカ ハングル講座』表紙およびフォトエッセイ、『季刊 三千里』写真連載など。1978・79年銀座ニコンサロン、1997年イタリアでの招待展覧会、2012年韓国国立民俗博物館「韓国を愛する巧 7080 過ぎ去った私たちの日常」等の展覧会開催。1987年度咲くやこの花賞受賞。2011年度(韓国)文化体育観光部長官賞受賞。
浅川巧より命名─韓国との縁は出生から
初期の作品(1970年) (写真提供:藤本巧)
私が韓国と関わりをもつようになった背景を辿ると、日本の帝国支配期に朝鮮半島の文化と自然に惹かれた日本人、浅川巧(※1)と柳宗悦(※2)の存在を外すことができません。もともと私の名前「巧」も、浅川巧に由来します。民芸運動に関心をもち、柳宗悦を敬愛していた私の父が、柳の著書『私の念願』を読んだのがきっかけでした。本の中で柳により紹介されていた浅川巧の生き方に、父は感銘を受けたのです。父方の実家は出雲大社の宮大工をしており、『朝鮮の膳』という著書をもつ浅川巧の木工への造詣にも共感したようです。
※1浅川巧(1891-1931):日本支配下にあった朝鮮半島で技師として林業に従事。緑を戻そうと山々を歩くと同時に、白磁や膳をはじめとする民衆の暮らしに根づいた工芸品の魅力に惹かれ、柳宗悦らに紹介する。
※2 柳宗悦(1889-1961):民芸研究家・宗教哲学者。雑誌『白樺』創刊に関わり、のち民芸運動を提唱。浅川巧・伯教兄弟らとともに朝鮮工芸に親しみ、その収集と保護に尽力。
初めて出会った「理屈ぬきの美しい風景」
海印寺
初めて韓国を訪れたのは1970年。若き写真家が主人公の映画「欲望」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1966年)に傾倒し、10代で写真を独学で始めましたが、自分のテーマを見つけられずにいました。そんな折に、父とともに韓国を旅することになったのです。
目的は、柳宗悦が1930年代に朝鮮半島を旅した道を辿り、現地の職人の暮らしにふれること。安東(アンドン)の麻の村、栄州(ヨンジュ)の綿の里といった工芸を生業とする集落や、海印寺(ヘインサ)、通度寺(トンドサ)などの寺社を回りましたが、いずれも柳が30年前に見たであろうものとたがわない、自然と融合した美しさをもっていたのです。
井戸端や藁葺き屋根など他の国でも見られそうな景色ですが、何かが違うのです。波長がぴったり合うというか、「理屈ぬきの本当に美しい風景を発見した」と感じました。それまでの撮影とは全く感触が異なり、どの角度から構えても美しく、夢中でシャッターを切ったことを覚えています。そのときの写真を、尊敬する染色工芸家・芹沢銈介先生が気に入ってくれたことも後押しとなり、韓国に通いながら撮影を続けることにしました。
韓国を通じて理想郷を表現したい
私と韓国との繋がりを語る際に欠かすことのできない、恩師のような人物がいます。1970年の初渡韓の際に知り合った、美術評論家のソク・ドリュン(昔度輪)先生です。
ソク先生が流暢な日本語で語る韓国の文化観に大きな刺激を受け、弟子になりたいと申し入れました。それが受け入れられ、先生と共に韓国を巡る旅を何度か続けました。
当時の私には、韓国のお寺や農村の人々などを通して自分の「ユートピア」を表現したいという構想がありました。中でもロープを垂らしたような滑らかな曲線美をもつ朝鮮時代の建築に魅力を感じており、古刹を中心に地方を訪ね歩きました。
ソク先生は元僧侶であったため、旅人では決して立ち入れないような修行僧の暮らしの中に密着するなど、非常に貴重な経験ができました。それが形になったのが、1974年に完成した初めての写真集『韓(から)びと お寺と喪服と古老たち』です。
「伝統葬儀で革靴」も民俗。見方が変わった恩師の教え
革靴を履いた喪主(1972年)
(写真提供:藤本巧)
ソク先生は、私の固定観念を変えてくれたという意味でも重要な存在です。それまでの私は鑑賞的な観点で、韓国の美しさを重視する見方しかできなかったからです。
1972年に昔ながらの葬儀を撮影する機会がありました。撮影当時、年配の喪主たちが麻の喪服にワラ草履という格好の中で、息子だけは葬儀の衣装に革靴を合わせていました。
「伝統的な姿」が撮りたい私は息子が写らないようにアングルを定めようとしましたが、そのとき後ろでソク先生が怒ったのです。「何をしているんだ、革靴を履いているのも韓国の民俗だ」と。
つまり文化とは単なる美醜や真偽ではなく、その時見えるありのままを捉えるべきだというのです。さらに先生は「君は対象を正面からしか撮っていない。写真家として韓国を捉えたければ、より多様な観点からその国を知らなければならない」とも語ってくださいました。
もしソク先生に出会わなければ、私はそのうち韓国に来るのを止めていたでしょう。韓国では1970年以降、農村の近代化であるセマウル運動が始まり、当初私が理想としていた自然と同化した世界が、次第に失われていったためです。
しかし先生の教えにより様々な対象に目が向くようになり、ソク先生がドイツに赴任した1970年代の後半以後も1人で韓国をまわりながら、田舎や都市、市場、巫堂(ムーダン)の儀式、祭りなど様々な現場と、そこに暮らす人々をフィルムに収めました。
写真は偶然・瞬間との出会い
見た瞬間突進した「チャガルチ市場の喧嘩」
作品は子どものようなものですから、それぞれに思い入れがありますが、一つ言えるのは「写真は偶然による部分が大きい」ということ。一生懸命探しても気に入った風景に出会えなかったことがある一方、条件が悪くほぼ写りの悪いネガの中に、「撮ってくれ」と言っているかのように強く迫る1枚が見つかることもあります。
そんな「その瞬間」でなければ撮れなかったであろう写真が、好きな作品といえるかもしれません。また多くの情報を提供しすぎず、見る側に解釈の余地を残したいので、基本的にはモノクロ写真にこだわっています。
私は基本的に望遠レンズを使わないため、近距離での人物の撮影は特に勇気がいります。さらに釜山(プサン)のチャガルチ市場など熱気のある場所は、こちらも勢いをもって向かわないとシャッターは切れません。子どもやおばあさんなど比較的撮りやすい被写体から入り撮影ムードを上げていくのが常ですが、ところが喧嘩の現場などに遭遇したときは違いました。恐怖感がなく突進して撮影する自分がそこにいました。
韓国語は「イルボンサラム」「ワッタガッタ」でOK?
韓国語は一時期日本で勉強したものの、実は今もあまり得意ではなく、旅行会話程度しか話せません。しかし語学ができないことは撮影にとって必ずしも障害ではありませんでした。意味が聞きとれないため後ろで何か言われても怖気づくこともありませんし、言葉ができないから逆に大目に見てもらえる場合もあります。怒っている人にも「イルボンサラム(日本人)」「ワッタガッタ(行ったり来たり)」とだけ言えば、にこっとしたり諦めたりしてくれるので、よく使ってきた言葉ですね(笑)。
また私には語学以上に、カメラを通して人の心に入り込む特技があるようです。まずは相手を撮したいというオーラを出し、理屈でなく感情ですっと近づくことで意外と受け入れられるのかもしれません。日本人に対して良くない感情をもつ人は昔も今もいるかもしれませんが、私の周囲で嫌な印象を受けたことはほとんどありません。
現地で理解してもらえない歯がゆさ
当時は韓国入国にはビザが必要で、15日間の滞在が終わると3カ月は渡航が出来なかったため、時間の面では難しさがありました。何度も行き来するので行商人ではないかと警戒され、持ち込めるフィルムや機材の制約が厳しかったのも苦労した点です。
また高いビルよりも田舎の風景に惹かれる私に対し、現地の住民の見方は異なりました。韓国北西部の席毛島(ソンモド)で藁葺きの教会を撮影した際は、警察が検問にきたこともあります。
厳しい南北関係と独裁政権下で、貧しさの象徴のような風景を撮影することに、敏感に反応したのでしょう。私は「物事の本質は隠したいところにあるのではないか」と考えていましたが、撮影をしながら現地の人に理解してもらえない歯がゆさは度々感じていました。
必ず招待で──願いが実現した韓国での展覧会
ある時期までは韓国で日本人作家が活動しづらかった事情もあり、展覧会や写真集の出版、『NHKテレビハングル講座』をはじめとする雑誌の写真連載と、活動の中心は常に日本でした。2000年後半あたりからは韓国で展覧会を開きたいと思いはじめましたが、そのときの希望は「規模は小さくても必ず韓国の招待で行なう」ということでした。
韓国人の手で展示の場が設けられることで、撮影時は韓国で見向きもされなかった私の長年の仕事の意義が見出せると考えたためです。そうした私の思いと韓国のあるギャラリー経営者との考えが合致し、2010年春にソウルを皮切りに、釜山そして金海(キメ)で巡回展『藤本巧写真展-KARABITO』を初めて開催しました。
国立民俗博物館で寄贈展が開催中
2011年には4万7千点あまりの写真を全て景福宮の国立民俗博物館に寄贈しており、その関連展示として2012年8月22日~10月1日まで『韓国を愛する巧 7080 過ぎ去った私たちの日常』が開催されています。元々私は仕事を最後までやらないと気がすまない面があり、以前の展示会では構成から配置まで自分で行なってきました。
しかし、今回は韓国の人たちの見方を重視してみたいと、70~80年代を中心にという時代設定を除き、企画をほぼ博物館にお任せしました。面白いのは、私がこれまで選んでこなかった写真が多数使われている点です。ピントのやや甘い写真や、私の気に入った構図とは異なる写真も、全てにきちんと選択理由があり新たな光をあてられています。
また展示に先立ち博物館の人とともに私の1970年代の代表作を辿り、40年を経た景色を探しあて、ほぼ同じ構図で撮影しました。そうした企画の成果も反映されており、全体的に満足のいく仕上がりになっています。会場には若いカップルや親子連れも訪れ、アンケートに「お母さんの時代の韓国を紹介してくれてありがとう」という小さな子どものメッセージがあったのは嬉しかったですね。