第67回~キム・ジュンヒョンさん ミュージカル俳優
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

名前: キム・ジュンヒョン
勤務先: ミュージカル俳優
年齢: 満34歳(1978年 2月27日生)
出身地: 釜山
在日本歴: 6年(2005年~2010年)
経歴: 2005年にソウル芸術大学 演劇科を卒業。同年に日本で「劇団四季」のオーディションに合格し、2006年に『ライオン・キング』のムファサ役でデビュー。

2010年に四季を退団、韓国へ帰国。『ジャック・ザ・リッパー』『ジキル&ハイド』『ゾロ』などの舞台に立ちながら、2011年にKAC韓国芸術院 ミュージカル科に入学。2012年11月から『アイーダ』上演。また2013年4月からは日本で東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』に出演予定。2012年大邱(テグ)国際ミュージカルフェスティバル新人賞受賞。
エンターテイメント、また芸術作品として国内外で熱気が高まる「韓国ミュージカル」。世界中で愛される人気タイトルも多く、言葉がわからなくても楽しめると、ソウル市内の劇場には日本人ファンの姿も絶えません。

「日韓わったがった」連載初、生まれ・育ちともに韓国人のお客様として登場していただくのは、ミュージカル俳優のキム・ジュンヒョンさんです。5年間所属した日本の「劇団四季」で、また母国の韓国で大型作品の主要キャストに次々抜擢。精悍な顔立ちはもちろん、身体の深くから響く情熱的な歌声がファンの心を離しません。堪能な日本語でご自身の経験を語ってくださいました。

「5年は戻るな」…恩師との約束

第67回~キム・ジュンヒョンさん ミュージカル俳優
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

演技を始めたのは大学に入るときです。高校の頃は俳優ではなくモデルになりたいと思っていました。しかし進学を機に将来を考えたとき、一生続けられる職業として俳優を目指すようになりました。故郷である釜山(プサン)市内の大学に通っていましたが、演劇で有名なソウル芸術大学を目指し、劇団の活動の傍ら何度も受験を重ねて4年後に入学を果たしました。

初めはミュージカルよりもストレートプレイの演劇に関心がありました。歌の勉強をする機会もありましたが、本格的な仕事にするとは思っていませんでした。
きっかけをくださったのは大学時代の恩師で、演出家でもあるキム・ヒョギョン教授です。韓国では近年、ミュージカル人気がブームといえるほどに高まっていますが、先生は当時から「この先は演劇だけでは食べていけない。ミュージカルのように大衆の人気を集める芸術がますます求められる」と口にしていました。またキム先生が学生を集めて「劇団四季」で短期研修を行なった際、私も参加しました。そのとき最終日に入団オーディションがあり、数名ほどの合格者に私も選ばれたのです。2005年の卒業と同時に日本に渡り、「劇団四季」に入団しました。
実は合格した後も、日本という外国で舞台に立つことに迷いを抱いていました。ところがキム先生は「絶対に日本に行くべきだ。5年以内に戻ってきたら許さない」と言ったのです。普段から学生の素質をよく見てくださっている先生の、長期的な視点からのアドバイスでした。尊敬するキム先生からの助言もあり、最終的に日本行きを決め、「劇団四季」で約5年半を過ごしました。私にとって日本での必死の活動は、先生との約束を果たそうとする思いがあってのものです。

最初は劇場を見るだけで圧迫感

第67回~キム・ジュンヒョンさん ミュージカル俳優
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

「ライオン・キング」ソウル公演
決心を固めて日本に行ったものの、言葉、生活の違い、寂しさなどが重なり、1カ月後にはすでに韓国に帰りたくなりはじめました。当時住んでいた部屋の窓を開けるとすぐ前に「劇団四季」の劇場が見え、それにさえ圧迫感を覚えるほどでした。

第67回~キム・ジュンヒョンさん ミュージカル俳優
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

「劇団四季」は韓国人、中国人といった海外出身の団員も所属しており、私は金田俊秀(かねだ としひで)という名前で活動することになりました。入団してから半年程度は作品の稽古には入らず、午前はジャズやバレエのレッスン、午後は生活言語と舞台用の2種類の日本語の授業を受けました。自分では普通に話しているつもりでも日本人にはこもって聞こえたりと、舞台に立つ身として言葉の面では特につらいことが多かったです。

イ・ギョンス、チェ・ヒョンジュ、イ・ジョンヘ…2005年に一緒に入団した韓国人は10人で、朝から晩まで毎日一緒に過ごす中で、互いに支えになりました。同期は作品に恵まれたり主演級の役を得たりと、後に活躍が認められるメンバーばかりです。2006年には「ライオン・キング」が韓国キャストでソウル公演を行なったりと、私が在籍したときは、ちょうど韓国人メンバーが「劇団四季」の中で成長していった時期だったと思います。

転機となった『エビータ』のチェ役

第67回~キム・ジュンヒョンさん ミュージカル俳優
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

私自身は2006年に『ライオン・キング』のムファサ役に始まり、2010年に退団するまで8作品で役につきました。中でもターニングポイントになったのは、2007年『エビータ』のチェ役です。別の作品のオーデションを受けようとしていたところ、その場でチェの歌を歌うように言われて決まったのですが、出された課題は「1カ月で舞台に立てるように仕上げる」というものでした。

『エビータ』はミュージカル作曲家のアンドリュー・ロイド・ウェバーの作品で、日本語はもちろん、ウェーバーの曲である点が非常に苦労しました。俳優を苛めているのかと思うほど音程の幅が広く、高音から低音までうまく調節しないと歌が成り立たないためです。同期の力も借りながら必死に練習し、なんとか歌えるようになってからは自信感が生まれ、歌い方も変化しました。『キャッツ』『ジーザス・クライスト・スーパースター』と、以後もウェーバーの作品には度々出演することとなりました。

カーテンコールで感じる日本人の熱気

第67回~キム・ジュンヒョンさん ミュージカル俳優
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

日韓で観客の反応に違い
日韓のステージ文化で違いを感じた点の一つは観客の反応です。舞台は俳優とお客さんが呼吸を合わせられる場ですが、韓国の観客は日本より積極的な反応を見せます。日本でははじめ、反応が少なく感じられ、自分の演技が良くないのかと不安になることもありました。しかし舞台が終わり、カーテンコールで盛大な拍手を聞いた瞬間に気づいたんです。「ああ、日本人は公演中は静かでも、拍手の熱さで反応を示してくれるんだな」と。いわば民族性のようなもので、自分の感情をストレートに表す韓国人に対し、日本のお客さんは周囲に気を遣い、公演中は反応を抑えているのではないかと次第に理解していきました。

アンサンブルは、日本と韓国の中間が理想

演じ手にも民族性は表れます。ミュージカルはメインも重要ですが、アンサンブルパートがきちんとサポートしてこそ良い舞台が作られると思います。私は日本にいた頃、韓国はアンサンブルの力が弱いように感じていました。俳優ひとりひとりの個性が強く全体がばらついてしまうためです。対して日本のアンサンブルは踊りのラインから目線までが見事に合っていて驚きました。しかしあまりにきれいに揃っているため、韓国人の目には個性が埋もれているように映る場合もあるともいいます。一言で優劣はつけられません。個人的には、日本の調和と韓国の個性の中間くらいが実現できたら理想的かと思います。

韓国への帰国。きっかけは『アイーダ』

第67回~キム・ジュンヒョンさん ミュージカル俳優
(画像=『韓国旅行コネスト』より引用)

ミュージカル『アイーダ』 
2010年に「劇団四季」を退団し、以後は韓国で活動を続けていますが、きっかけの一つがミュージカル『アイーダ』です。当時私は日本で人気作品を演じる機会に恵まれながら、やはりいつかは韓国で皆に愛される作品ができたらと考えていました。そのとき韓国から飛び込んできたのが『アイーダ』2010年版公演のオーディションです。結局2010年は出演には至りませんでしたが、その一件により帰国が後押しされました。

韓国へ戻るのは勇気のいる選択で、恩師のキム先生にも「帰国はまだ早い」と言われました。実際、韓国語の台詞回しの勘を取りもどすのが大変で、「日本で活動していた俳優」という程度の視線で見られることも多く、一から再び始めなければならない気分でした。ただ、そんな中でも支えてくれた友人や知人はいました。オーディションが予定より早く終了していて参加できなかった際、友人が主催者に事情を説明してくれ、後日特別に受けられたというエピソードもあります。私が韓国でも続けて舞台に立てているのは、周囲の助けや運の良さも大きな理由だと思います。

『アイーダ』は2012年11月27日~2013年4月28日まで新道林(シンドリム)の「D-CUBEアートセンターD-CUBE CITY内)」で上演されており、私はヒロインのアイーダと恋に落ちる敵国の将軍・ラダメス役で出演しています。実は同役は「劇団四季」でも経験があり、日韓両国語で演じられるという意味でも私にとって意味のある作品です。
ストーリーも魅力的です。人を信じること、愛し愛されることは生きていく中で大切ですが、私は『アイーダ』を通じ、困難を知りながらも惹かれあう男女の、大きな愛の形を伝えたいです。最近はすぐ別れてしまうような恋愛も少なくない中、作品を見た後でみなさんにご自身の愛について考えてもらえたら嬉しいですね。