「自撮り女子」として有名な女性、りょかちさん。女性としての自分に自信がなく、あるとき飛び込んだのは祇園のクラブ。そこで知ったのは、カワイイは努力でつくれること、そしてカワイイを磨くことは、自分と誰かが機嫌よく生きる手助けになることでした。

「自撮り女子」としてインターネットで自分のことが話題になり始めた頃、「自撮り」じゃない自分のことも好きになりたくて、祇園のクラブに飛び込んだことがある。

当時の私は、というか、社会人になってしばらく経つまで、とにかく女性としての自分に自信がなかった。小学生の頃は学年で一番太っていたし、今でもそこまで痩せたわけじゃないし、笑うのが下手で写真を撮られるのはすごく嫌いだったし、おしゃれでもないし……というふうに、自分を肯定するための術をひとつも持っていなかった。

いくら「自撮り美女」としてメディアに取り上げられても、SNSを通してたくさんの人が私の偶像に「いいね!」してくれても、あくまでそれは、ネット上にいる「アバター」としての私への評価で、日常を生きている自分に対して肯定感はまったく芽生えなかった。

70代後半でありながら、未だに髪の先・爪の先まで美しく、どんな会話も弾ませてしまう小柄なママがやっている小さなクラブ。普通の大学生から、昼は社会人の女性まで幅広く働いていて、それぞれとても愛らしい女性が揃う、祇園の端っこにある小さなクラブ。

私は、そこに行けば自分を少しは強制的に「カワイイ」に近づけられる気がして、キラキラ輝く世界に自分を半ば無理やり押し込めたのだった。

■「カワイイ」は努力でつくれる、という事実

クラブで働き始めて程なくして、私はすぐに、やっぱり当然の事実にたどり着く。それは、いわゆる「カワイイはつくれる!」ということである。

「カワイイ」は努力の結晶。そしてだからこそ、可愛い女の子は尊い。

どんな美人も髪がボサボサだったら目が滑るし、どんなにスタイルが良くても姿勢が悪ければ印象が悪い。視界に入れておくだけで誰かを幸せにできる「カワイイ」は、初期設定としてのアドバンテージが各人あれど、それぞれの高い到達点にはコツコツと貯めた努力点が必ず積み重なっている。

毎日、控室で悩みながら衣装を選び、小さなアップデートを繰り返したメイクで武装して、お店に出ていく女の子たちを見て、私はすぐに、彼女たちを追いかける目標として、とても好きになってしまった。

クラブのなかでは最年少で、音大に通っている女の子のことが特に好きだった。その子を仮にAちゃんとしよう。Aちゃんは高い音大の学費を稼ぐためにこの仕事をしていて、スッキリした目元とふわふわした黒髪が印象的な、華奢な女の子だった。彼女はよく、お客さんの誕生日にその人の好きな曲を店にあったピアノで生演奏をしては、お客さんを喜ばせていた。Aちゃんの曲が流れるたびに、「自分がお客さんでも、これはイチコロだろうなあ」と思った。店の開店前に、お客さんのための曲を黙々と練習する彼女の姿を日々見ていたからかもしれないけれど。

私たちはお店の中でも歳が近くて、だから控室でよく仲良くしてもらった。メイクもろくに知らなかった私にメイクを教えてくれたり、身体のラインがキレイに見えるドレスの着方を教えてもらったりした。

彼女は「カワイイ」に人一倍厳しかった。自分が目指すべき「カワイイ」が確立していて、実際にその姿はとてもカワイイし、彼女のことが好みでない男性も、その日々努力する姿に尊敬を感じているのがわかっていた。誰も、彼女の決めた「カワイイ」を否定する人はいなかった。彼女は「カワイイ」自分と、その姿で生きる人生に全力で、その姿勢を含めて、みんな彼女に惚れていた。そして自分の「カワイイ」をまったく信じられなかった私もまた、そのひとりだったのだと思う。

彼女はいつも、控室で私にメイクを教えながら、「ほら! こうするとお姫様みたいやろ?」とキラキラした瞳で私を見てくれた。私はその頃に、「そうかあ、自分が可愛くなるって嬉しいなあ」ということを彼女と一緒にいた時間から覚えたのだと思う。

そして同時に、「『コンプレックスだから』と逃げるのは甘え。コンプレックスとは課題であり、わたしたちが解決策を探る気があるならば、それは必ず改善する」という、ストイックな精神も身につけた。

■強みがなければ選ばれないが、弱みがなければ私ではない

だけど私はいつまで経っても、細くてキレイでおしゃべり上手なAちゃんのようにはなれなかった。

学生時代で一番痩せた時期だったけど、それでも全然華奢じゃなかったし、相変わらず喋るのはへたくそだった。唯一お酒を飲むのと、比較的難しい話でもきちんと相槌を打つことと、お母さんに教えてもらった古い歌を歌うことは得意だったから、私は私のできることを全力でやって、それだけで毎日必死だった。

しかしそれもそのうち、それでいいのだということを私は学んだ。数カ月勤めている間に、多くはないけど私に会うことを楽しみにしてくれるお客さんが少しずつ現れて、楽しそうに話して、私は飲みながらそれを一生懸命聞いて、嬉しそうに帰っていくのを見送っているうちに、ママが「あんたは話を聞くのが上手やから」などと褒めてくれたり、気が合いそうなお客さんに引き当ててくれたりしてくれた。

また、自分は何が得意なのか理解して動けるようになってからは、「みんなで盛り上がりたいこの人たちはAちゃんに任せて、私は落ち着いて話したいこの人を接客する」だとか、自分の役割でお店に貢献できるようになっていたと思う。

「カワイイ」とは一神教ではなく多神教である。Aちゃんもまた、自分が信じる「カワイイ」を生きているし、Aちゃんのファンはそのカワイイに勇気づけられているけれど、それがすべてではない。石原さとみさんも可愛いけど、佐々木希さんもカワイイし、深田恭子さんもカワイイ。私のお客さんや歴代の彼氏もまた、華奢じゃなくても、話すのが下手でも、そんな欠陥を含めて私の「カワイイ」を信じてくれていたのだと思う。

そんなことに気づいてからは、自分の欠陥は絶対的なものではなくて、誰かにとってそれは私が私として魅力的に見えるエッセンスになり得るのだと気づいた。その上で、自分が変えたい自分のコンプレックスのために、努力は積み重ねればいいのだ。

■「カワイイ」は誰かを機嫌よくするための魔法。重要なのは磨く意志

ママは人を褒めるときいつも、相対する人の幸せについてもセットで語ってくれた。

「あんたの髪の毛はいっつもサラサラでええなあ〜男の人はついつい触りたくなるやろなあ〜」
「あの子は声がええやん! 色んな人が、ついついいっぱい喋ってしまわはるのもわかるわ」
「あの子は笑顔が素敵やから、会えるだけで元気出るよねえ」

そう、「カワイイ」とは、誰かを幸せにする魔法なのだ。人間として、女性として、「カワイイ」を磨くことは、誰かと一緒に機嫌よく過ごすためのひとつの必殺技なのである。だけど忘れてはいけないのは、自分が目指す「カワイイ」の方向性は、自分が機嫌よく生きるためだけに決めれば良いということ。相手を機嫌よくすることも大事だけれど、何よりも大切なのは、お互い「機嫌よく生きる」ことなのだから。

いくらかのメイクと、お酒の飲み方は覚えたけれど、祇園での経験を通して、私が「美女」になったかはわからない。だけど、誰かと、そして自分のコンプレックスと、機嫌よく生きていく方法や、そのための小さくも揺らがない自信は、そのとき確かに手に入れたと確信している。

「カワイイ」は誰かと機嫌よく生きるための魔法だ。だからこそ、自分もその先の到達点で機嫌よくあるために、自分の欠陥と向き合いながら進む「カワイイ」への道は、自分が好きで選んだ道でなければならないのである。

Text/りょかち
1992年生まれ。京都府出身。学生時代より、「自撮ラー」を名乗り、話題になる。現在では、自撮りのみならず、若者やインターネット文化について幅広く執筆。著書に『インカメ越しのネット世界』(幻冬舎刊)。その他、朝日新聞、幻冬舎、宣伝会議(アドタイ)などで連載。Twitter:@ryokachii


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