ダウン症の弟に対する、ひどい差別

「父と母は結婚後、父の仕事の関係で南米のペルーに行きました。僕はペルー生まれなんです。ただ、父と兄はスペイン語をしゃべれましたが、母はまったく話せず、孤立していました。僕も小さくて母の会話相手にはならない。かなりストレスをためていたと思います」

 弟さんが生まれるタイミングで帰国。しかし、母親の実家は冷たかった。

「Y県の田舎からすると、あるいは祖母世代の感覚としても、ペルーは“未開の地”呼ばわり。よくわかんない国に行って、障害のある子供をこさえて、お前の旦那の遺伝子は汚れてるんじゃないか? という扱いを、祖母や親族から受けたようです」

 醜悪極まりない偏見と差別意識だ。虫酸(むしず)が走る。

「母は若い頃ピアノ教師でしたが、ダウン症の弟が小さい頃は、つきっきりで面倒を見なければならない事情もあり、結婚後はもちろん離婚してからも、一切働いていませんでした。父親から養育費はもらっていましたが、基本的に僕たち一家は祖母に養ってもらっていたんです」

 小林さんの祖母は、生保レディとして当時まだバリバリの現役だったという。

新たな地獄のはじまり

 Z県で待っていた母親の再婚相手は、母親がとあるボランティア団体で知り合った男性だった。

「実態は宗教団体です。父親がいなくなって以降、自宅で早朝4時くらいから毎日集会が行われていました。その団体のZ県支部に所属していたのが、再婚相手である継父です。交流会か何かで知り合ったのでしょう。彼もバツイチで、大学生の息子と10代後半の娘がいたんですが、ふたりとも引きこもりで、娘のほうはダウン症。ダウン症の子を持つ親同士、母と悩みをわかりあえる部分が多かったんだと思います」

 しかし、新生活はたった3か月で破綻する。

「母と継父が、毎日激しく喧嘩するようになりました。喧嘩の理由はおもにお金。母は働いておらず、継父の収入に頼りきっていましたが、『これっぽっちのお金で養えるわけがない』と文句。継父は『お前らなんかに払える金はない』と言い返す。母は最初からお金目当てで結婚したので、継父の収入が思ったより低かったことに落胆したんだと思います」

Vol.21-1「なぜ僕は“モラハラ夫”の烙印を押されたのか」東大卒男性の壮絶な生い立ち
(画像=『女子SPA!』より引用)

喧嘩の仲裁役は、いつも小林さんだった。

「手も出るし、食器も飛ぶ。僕は、なんとかふたりを別々の部屋に引き離し、双方の言いぶんを聞いて相手に伝える伝言役でした」

 当時の小林さんは中学1年生、たった12歳である。

「喧嘩が始まると、弟が恐怖で耳を塞いで震えてるんです。ダウン症の子は心がきれいだから、すごくおびえてしまう。なんとかしなきゃと必死でした。継父の連れ子の二人は部屋から出てこないので、いっさい頼れませんし」

近所に響く母の「助けてー」

 小林さんが友達と学校から帰ってくると、家の前の道で早くも母親の「助けてー」と叫ぶ声が聞こえる。急いで家に入り、仲裁する。そして隣近所に、「うるさくてすみませんでした」と謝りに行く。そんな毎日が続いた。

「いちいち自分の感情をもっていたら、やっていけない。だから自分の感情は一時脇に置いて、とりあえずこの問題を解決する。そういう思考のクセがつきました。そうしないと、生きていけなかったので」

 名実ともに、12歳の少年が一家を回していた。

「連れ子の娘さんのダウン症は僕の弟より深刻で、家に誰もいないと、とにかく暴れる。冷蔵庫の中のものを、ぐちゃぐちゃに食べ荒らしちゃうんです。だから学校から帰ったら、まず家の中を片付けるのが日課でした」

「主に感謝」の右手で殴ってくる継父

 母親の再婚相手は、小林さんに暴力をふるった。

「継父はクリスチャンでしたが、夕食時、両手を組んで『主(しゅ)に感謝します、アーメン』と言ってるそばから、その右手で僕を殴るんです。なぜ殴られるのか、わけがわかりませんでした。社会っておかしなことが起こるんだな、と……」

Z県にやってきて間もなく1年という頃。いよいよ両親の喧嘩が苛烈を極める。ある日曜の朝、継父が教会に行っている間に、母親は小林さんを叩き起こす。

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(画像=『女子SPA!』より引用)

「目の血走った母が、ダンボール箱に好きなものを詰めろと言うんです。わけもわからず詰めて持っていったら、これを実家に送る、もうこの家には戻らないからね、と。夜逃げならぬ、昼逃げです」

 しかし小林さんは抵抗する。学校でせっかく友達もできたし、まだ1年生の途中。せめて終業式まではいさせてくれと懇願すると、母親はしぶしぶ承諾した。

「ただ、母はヒステリー状態になっていて、継父に見つかる可能性のある最寄り駅には近づきたくないと言って聞きません。そこで、電車で数駅離れた駅の周辺にあるいくつかの安宿を、終業式までの2か月くらい点々としました。1間で、3畳か4畳みたいなところです。中学までものすごく遠くなってしまったので、毎朝、始発電車とバスを乗り継いで、部活の朝練に行っていました」

 小林さん曰く、当時の母親は明らかに何らかの精神疾患を抱えていたが、通院はしていなかった。いずれにしろ、中1の子供にはどうすることもできない。