「敵だ、敵だあー」
初美さんが小林さんの首を絞めながら馬乗りになり、恍惚の表情を浮かべている。激しく揺れる画面。初美さんは「徹、死ぬかな? 徹、死ぬかな?」とつぶやき、徹さんは、「あぁぁぁーー、あぁぁぁぁー、やめてー」と、うめきながら叫んでいる。
小林さんが解説をはさむ。
「被害妄想が激しいんです。僕が何も言っていないのに、『私に向かってそんなことを言うの!?』『なんで私のことをもっと考えてくれないんだ!』『じゃあ私が死ねばいいの!?』って。でもそれは全部、精神疾患にともなう妄想や幻聴が原因です」

心理学と精神疾患を専門にしていただけあって、小林さんは冷静だ。
「一度暴れだすと、2、3日はこの調子でした。ただ初美は、朝になったらちゃんと仕事に行く。人前では“自分はおかしな人間であってはならない”という規制が働くから、何十人の前で話ができたりもする。で、帰ってきたらまた暴れる。当時の僕は朝6時ごろまで暴れる初美に付き合い、少しだけ寝て、9時に出社。そんな日々が続いていました」
やがて動画の初美さんは、小林さんの手にスマホが握られていることを確認すると、不気味な笑みを浮かべながら言った。
「何がしたいのー? 何がしたいのー? 携帯使って何がしたぁいのぉぉぉぉぉ?」
背筋が凍った。こんなことが家庭内で頻繁に起こっているとは。しかし、もっと驚いたのは小林さんの次の一言だった。
「初美は暴れている間の記憶が一切ないんです」
風邪をひいてくしゃみをするのと一緒
そもそも小林さんがこの動画を撮った理由は、初美さんが望んだからだ。
「『どうやら私は徹くんに暴力をふるってるみたいだけど、記憶がなくなるの。だから次に暴れたら動画で撮っておいてほしい』と言われました」
実際、暴れるのが収まるごとに初美さんはとても反省し、落ち込み、自己嫌悪に陥っていた。愛する人を傷つけてしまったこと、それを制御できない自分の不甲斐なさ。しかし小林さんは、それを最初からちゃんと理解していた。
「暴力は初美の意思ではありません。やりたくてやってるんじゃない。風邪をひいてくしゃみをするのと、精神疾患の発作で殴っちゃうのは、一緒だと思っています」 小林さんは認知行動療法をとった。一度暴れたら、直後にその場で「どうしてこうなったか、考えよう。もう一度、落ち着いて振り返ってみよう」と初美さんに優しく問いかけるのだ。
粘り強く続けると、やがて初美さんから、「徹くんが私のことを心配してくれている気がする」「死ねなんて言ってないよ」という言葉が出てくる。やがて、「そう言えば、あなたを殴ったかもしれない」と認めるようになる。それを暴れるごとに繰り返す。終わりの見えない試練の夜が幾晩も続いた。小林さんは初美さんと向き合うことを諦めなかった。
「初美、リミッターが外れているので、ものすごく力が強いんですよ」
動画の初美さんが言う。「私のこと……嫌なんでしょ? 敵だ、敵だあー」。敵とは徹さんのことを指しているようだ。