社会人として働くようになると、自由な時間を確保することはなかなか難しいもの。そのため、文学史に残るような大ボリュームの傑作は時間のある学生時代に腰を据えて味わっておきたいものです。こちらの記事では、読み応えもリーダビリティもピカイチな、日本の近現代文学を代表する長編5作品を紹介します。
ノーベル文学賞の最終候補に2度あがった――谷崎潤一郎『細雪』
谷崎潤一郎が戦中から戦後にかけて執筆した『細雪』は、現在もなお国内外で高く評価されている近代文学史上の傑作です。
物語の舞台は1936年から1941年にかけての大阪。没落しつつある旧家・蒔岡家の4人姉妹が織りなすすっきりしゃれた生活文化や、どこか浅ましさを感じさせる家族関係や男女関係の機微、そして自然災害や戦争による滅びの予感が、このうえなく丹念で精緻な文体によって表現されています。
映画やドラマ、舞台の題材としてもたびたび取り上げられ、クラシックのなかのクラシックとして評価されている『細雪』。
滅びゆく文化を小説世界のなかで結晶化しようとする職人的技巧と、SNS時代にも通じるような下世話なおしゃべりが絶妙な塩梅でミックスされており、読み方によってはきわめてエンタメ的な作品としても受けとることもできるでしょう。
次のページをめくりたくなる欲望と、同じ箇所を何度でも読み返したくなる未練が同居した読書の快楽。“大谷崎”の豪腕に、ぜひ振り回されてみてはいかがでしょうか。
実体験とインタビューで作り上げた戦記文学作品――大岡昇平『レイテ戦記』
大著『レイテ戦記』を生み出した大岡昇平は、1944年に召集を受け、翌年1月にフィリピンで米軍の捕虜となった体験を持つ、戦後派を代表する作家のひとり。
死に直面した極限状況下における人間の狂気を描いた戦争文学の傑作『野火』、米軍の捕虜収容所の内実を克明に記録・分析した『俘虜記』に続いて、大岡の戦争体験の総決算となったのが『レイテ戦記』です。
日本軍と米軍による文字通りの“死闘”となったフィリピン・レイテ島の戦いの末に、喪(うしな)われた兵士たちの命を鎮魂するために、大岡は日米双方の視点から膨大な資料やオーラル・ヒストリーを蒐集。
気が遠くなるような情報の数々を自ら編集・再構築し、他に類を見ない解像度と熱量を誇る重厚な戦記文学として成立させました。『野火』『俘虜記』と併せて読むことで、当時の日本軍の愚かさと人命軽視の思想、そしてなによりも戦争という巨大な暴力への怒りを、あらためて噛みしめることができます。
最後の長編作品の四部作――三島由紀夫『豊饒の海』
稀代の天才として日本文学史に名を残す三島由紀夫ですが、彼の代表作を一作選ぶとなると、読書家たち同士でも議論が紛糾することは間違いないでしょう。
初期の『仮面の告白』を最高傑作と見る向きもあれば、『金閣寺』や『午後の曳航』を推す声もあります。
はたまた『憂国』のような短編から『不道徳教育講座』のようなエッセイ、戯曲『サド侯爵夫人』まで……。その旺盛な創作活動の全貌をフォローするのは困難です。
しかし、あえて三島の代表作を選ぶとするなら、やはりそれは遺作にもなった大長編『豊饒の海』でしょう。
三島が同作の最終巻にあたる『天人五衰』を入稿した直後、自衛隊に決起を呼びかけ、市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたことは周知の事実です。難解をきわめる物語はもちろん、そうしたテキスト外のドラマが複雑に絡み合うことで、いまなお『豊饒の海』は無数の謎を孕んだ書物としてアンタッチャブルな地位に収まっています。
『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全4巻からなる『豊饒の海』の筋立てを要約するなら、「才能豊かな人物が夭折し、輪廻転生を繰り返す」というもの。
作中にはさまざまな謎(生まれ変わりが本物か否かなど)や意味ありげな描写が散りばめられており、「正解」と呼べるような一義的な解釈を求める読み方は難しいでしょう。
三島の実質的なデビュー作『花ざかりの森』を連想させる『天人五衰』の終末部を読み終えたとき、自ら死を迎えようとする彼がどうして輪廻転生の物語を書かずにはいられなかったのか、ということがおぼろげながらも理解できるのではないでしょうか。