――現在、流通しているバージョンにそんな箇所はなかったと思いますが……。

浅井 伏せ字になっているのは労働者たちが〈石ころでも入れておけ! かまうもんか!〉と吐き捨てるシーンです。自分たちが過酷な環境で作った缶詰が天皇陛下に献上されることを知った労働者の不満を描いているのですが、当時の出版社は「そのまま出すと発売禁止になる」と心配して伏せ字で出版したと考えられます。この部分は、戦後に発売された全集で明らかになりました。

――出版社による自主規制は今でも見られます。しかし、わざわざ「××○○」と伏せ字にすると世間は余計に気になると思うのですが……。『蟹工船』以外に検閲を受けた作品にはどのようなものがありますか?

浅井 事後検閲の具体例は出てこないのですが、事前検閲を受けた可能性が高いのは、「新青年」という雑誌に掲載された横溝正史の小説『鬼火』です。実物の雑誌を見ると、小説が掲載されていたはずのページが物理的に切り取られていることがわかります。

――落丁のごとく、10ページ近くが抜けていますね。

浅井 本作は前後編に分かれているのですが、後編が掲載された「新青年」の編集だよりで「前号がその筋の命令により削除を行い、愛読者諸君には大変ご迷惑をかけた」という旨が書かれているため、おそらく事前検閲により、該当ページを削除しなければ発売できなかったと思われます。

――「その筋」という表現が……。それに、この文章は検閲されなかったのですね。

浅井 そうですね。また、切り取られたページはほとんど現存していません。しかし、たまたま切り取られていないものを個人で所蔵されていた方がいたため、削除された内容が確認できました。

発禁本を守り抜き後世に「確実に」残す

――いったい、どのような表現が検閲の対象になったのでしょうか?

浅井 この小説は男女の痴情関係の描写が、「風俗壊乱」と見なされた可能性が高いと思われていました。しかし、実はもうひとつ社会主義に関する記述も含まれていたため、その両方の理由で検閲の対象になったと考えられます。