いまだに『おむすび』における最大の事件は「豚と玉ねぎのニンニク炒め」映さない事件だと思ってるけど、もっとも醜悪なやり口だと感じたのはここのおむすびおばさんのインサートでしたね。

 ギャルになるまでで6週、栄養士になるまでで1週、結局、ギャルになった瞬間にも、栄養士になると決意した瞬間にも、説得力を持たせられなかった。逆に言えば、ここだけバチっと決まってればこんなにストレスを感じることもないのです。ここだけ決めて、逆算で物語を作っているはずなのに、ここが決まらないんだもんな。しんどいよな。

「覚えてない」ものを根っこに置くから

 糸島編は、結という人が震災のトラウマに囚われ、つらい少女時代を過ごした、というお話でした。しかし、肝心の結のトラウマが当時6歳だったせいで具体的に描けなくなってしまった。

 その結果、リリーフとしてアユ(仲里依紗)とマキちゃんがその具体性を担当することになったわけですが、今度はアユがギャルになったきっかけとギャル時代の行動がポジティブに描けない。

 なぜなら、物語の筋として「ギャル大嫌いだった結がギャルになる」というカタルシスを求めた要素と、「アユがマキちゃんの遺志を継いで、マキちゃんの人生を生きるためにギャルになった」という人情劇の要素とが真正面から衝突してしまったからです。

 ここで具体的に「ギャルのアユ」と「ギャル嫌いだった結」の対立を描いてしまうと、結が姉を大嫌いだったことが、そのままマキちゃんの人生を否定することにつながってしまう。アユがギャルになって米田家をめちゃくちゃにした、その元凶がマキちゃんである、ということになってしまうのです。マキちゃんが「ギャルになりたい」なんてアユに言い遺していなければ、アユはギャル化しなかったし米田家は平和だった。そういうことになってしまう。

 6歳時に震災に遭った人物を主人公にしてしまったために、具体的なトラウマを事実関係として描けず「ギャル大嫌い」という衝動だけに頼ってしまった。結果、結が大嫌いだったアユの「カリスマ時代」に説得力を持たせることができなかった。