風見先輩に対して結は、単なる「遠い存在への憧れ」という気持ちではなく、リアルに「告られるかも!」って興奮してたり、清楚系彼女の存在にがっつり落ち込んだりしているので、翔也からお弁当の感想メールを待つシーンとかが軽く見えてしまっていたんですよね。「もう切り替えたんかい」と。
しかも「結は風見先輩の顔が好きである」という描写が何度も繰り返されていたので、「こいつイケメンなら誰でもいいんかい」と見えてしまっていた。「風見先輩=単なる憧れ」「翔也=真剣な恋」と描き分けたかったのでしょうけれども、だったらあのウキウキでメールを待つ描写はノイズにしかならない。
そういう「軽い」印象で始まった恋が、将来の進路につながっていく。別に好きな男がきっかけで進路を決めること自体はいいとも悪いとも思いませんが、だったら今度はそれを貫きなさいよと思うわけです。好きを貫くのがギャル魂なのでしょう。それなのに、結は専門学校に入りたいと両親に告げるときに、「一生懸命やっとう人を支えたい」「そういう仕事が向いてると思う」とかなんとか、別の話をしている。本心として視聴者に提示したはずの(そして今後も提示していくはずの)「翔也を支えたい」ではない。
なぜそういう齟齬が発生したかといえば、「翔也を支えたい」では震災と関係がなくなってしまうからなんです。どうしても、震災にこじつけなければコンセプトとズレが生じてしまう。震災翌日におむすびを届けてもらったおばさんのエピソードをきっかけに栄養士になる、盛んにそう宣伝されてきたドラマで、「彼ピッピを支えるために栄養士になる」と言わせるわけにはいかないという物語の外の力が働いている。
本来なら、結が栄養士になる決意とあのおむすびおばさんを物語の中で何とかつなげたかったはずです。しかし「おむすび、恋をする」という週で、ろくに覚えてないおばさんのエピソードを持ってくるのはさすがに無理だったのでしょう。なんとなく耳さわりのいい「一生懸命やっとう人をどうこう」みたいなボンヤリしたセリフを吐かせて、そこに無関係のおばさんの映像を挟み込むという反則技で乗り切ることになりました。