自分の設定した基準、イメージを崩してはならないと深刻に考えることは、それは自分自身という人間そのものを重大な存在だと考える、尊大な態度につながり得るからです。
だとすれば、全く声が出ないわけでもなく、42℃の熱で起き上がれないわけでもないのに、「納得がいかない」という自身の判断でライブを打ち切ることが、本当に称賛に値する行為なのだろうか。
◆音源そのままの表現へのこだわり「間違い」を拒絶
そうした自らに設けた高い基準が、原曲のキーを維持し、録音された年代の演奏を再現することなのなら、それは音楽のライブというよりも、ミニチュアやジオラマの発表、鑑賞に近い感覚なのかもしれません。
“自分の世界”の保存が、音源そのままの表現へのこだわりにつながっている―――。高校時代にハマり、その後熱が冷めていった筆者の山下達郎評は、そんなところです。
アメリカのシンガーソングライター、ベックは「芸術は間違いの裂け目がもたらす新しい視点から生まれる」と話していました。これまでの言動からすると、山下達郎というミュージシャンはその「間違い」や「裂け目」を拒絶する人なのだと言えます。
そういえば、山下達郎は芸術という言葉が嫌いで、自身を「職人」(フランス語のArtisan)だと語っていましたっけ。
つまり、山下達郎の音楽は、閉じられ、圧縮された中で濃密な輝きを放っているのです。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4