かつてはシームレスに行き来していた地声と裏声の使い分けも、いまではギアを入れ替えたときのノイズが入り込んできてしまう。そういった不可抗力の揺らぎが曲やサウンド全体に波及する余裕のなさにつながっているわけですね。
わかりやすく言うと、近年の山下達郎の音楽は、苦しいのです。キーを保ったままにすると決意した矜持が、音楽から滑(なめ)らかさやしなやかさを奪っている。
今回の公演中止は体調不良によるやむを得ない事情があったとしても、そもそもほんのわずかでもバランスを欠けば破綻してしまう危うさを孕(はら)んでいたのではないかと思います。
◆過度に生真面目なキーを下げてはならないという決意
もちろん、その神がかったバランスを長年維持し続けてきた職業倫理は唯一無二です。
その曲を収録した時代の演奏を常に最上質で再現するストイックさと、多幸感あふれるポップスが拮抗する緊張感は、山下達郎の魅力です。道を極める日本的な職人の姿そのものでしょう。
作詞、作曲、アレンジ、サウンドプロダクション、すみからすみまでを自身の見識のもとに管理、施工する。キーを下げてはならないという決意は、衰えに抗うこと以上に、緻密に作り上げたコンセプトを根底からくつがえしてしまうことがあってはならないという掟なのですね。
しかしながら、今回中止になったライブを観に行った人の中には、“少し声は出しづらそうだったけれども、全く出ていないわけでもなかった”とコメントしている人もいました。ということは、お金を払ったライブとしてお話にならないほどの代物ではなく、人によっては分からないぐらいの誤差であった可能性もあるわけです。
そのような素人にはわからない不具合でも音楽が崩壊してしまうと考える繊細さは、超一流のプロフェッショナルとして尊敬に値する姿勢である一方で、裏を返せば、過度に生真面目ということも言えないでしょうか?