被災者の暮らしとは、大切な人を亡くして絶望を感じても「それでも生きていかなきゃいけない」という、その日常のことです。『おむすび』はナベさんという被災者の「娘が死んだつらさ」は描いても「生きていかなきゃいけないつらさ」はまったく描きませんでした。
先週の土曜日ですかね、いつもの統括プロデューサーが取材に応えて、結たちが高1の終わりに体験していたはずの福岡県西方沖地震について「描かない選択をしました」と語っていました。「2005年には地震も経験しているでしょう」「さまざまな記憶がフラッシュバックして、結も大いに戸惑ったに違いありません」。
もしかしたらナベが12年間、仕事をしていたかどうかについても「描かない選択をしました」とか「きっと働いていたに違いありません」とか応えるのかもしれません。
「本当に伝えたいことが伝わらないと考えました」
「一歩一歩、日常を前向きに生きる人間の生命力、逞しさをきっちりと届けるために、あえて描かないこと選択しました」
これも、西方沖地震を描かなかったことについてのコメントです。
ナベの12年間の日常(=仕事ぶり)を描かなかったということは、「日常を前向きに生きる人間の生命力、逞しさ」を描かなかったということです。これは、被災者に「かわいそうな人」というレッテルを貼っているということです。極端に嫌な言い方をしますけれども、震災で深い傷を負った人間を「人間扱いしていない」ということなんです。
今回、ナベは米田結の言葉に胸を打たれ、デコ靴を徹夜で仕上げてきました。これで「心の復興」を見たということでしょう。
この一連のシーン、じゃあ本当に伝えたいことはなんだ、とドラマから与えられた情報から読み解けば「米田結が動けば万事解決」「米田結こそ人と人を結ぶ救世主」という“結ちゃん神話”だけです。
12年後の神戸でナベが出てきた当初から「こいつ仕事してねえのかよ~」なんて軽い気持ちでツッコんでたけど、いざ「被災者ナベ、回復完了」と示されると、その被災者に対する描写の悲惨さ、軽率さに改めて思い当たってしまい、笑ってる場合じゃないなという感じです。これで震災と被災者の心の回復を描き切ったと思っているなら、なかなかにこれは、アレだよね。作品のメインテーマだったはずでしょ。