たぶんね、必要ないんですよね。炊き出しのメニューを考え始める際にもサッチンに「献立考えて」と言われて、結が「え、うちが?」と応じるシーンがありましたが、これ値打ちこいてるだけなんだ。主人公が物語を進めることは当たり前なんですが、結という人が物語の進行に貢献することそのものに、必要以上に価値を生もうとしている。
ナベさんがおむすび食うシーンも、筋の通りならナベがみんなのところにやってきて、パン屋がおむすびを渡すほうが自然なんです。これはパン屋とナベのいざこざにおける解決なわけですから。
今回のラストにアユ(仲里依紗)のセリフとして「結は名前の通り人と人とを結ぶね」みたいなことを言わせていますが、このニュアンスにつながってくる物語の思想の部分の話です。『おむすび』は基本的に米田結という人を「ありがたい人」として描こうとしている。そこらへんの思想が合うか合わないかが、これだけの賛否を呼んでいる原因なのかなと感じたりしました。
で、野菜のエピソードのこじつけに話を戻します。結は「野菜の成長速度は野菜それぞれだから、人の心の復興も人それぞれでいい」と話し、これに心を打たれたパン屋が涙を流すというシーンです。
その意図は痛いほどわかる。思いついちゃったんだよな、野菜の成長速度に例えたいと思っちゃったんだろうな。
こういう例え話をする人っていますよね、よくいえば物事を網羅的にとらえて関連性を見出そうとする人、悪くいえば「うまいこと言い」です。これをやる人とやらない人の間には、実感として、大きな断絶があって、やらない人が急にやることはまずないでしょう。
これまで結という人が、そういうことをやる人だという印象は一切ありません。だから「脚本家がしゃべりだした」という感触を与えてしまうんです。性格の描写として、まず唐突。しかもその根拠が、神戸編で場当たり的に付け足された「結は野菜に詳しい」という後出し設定なので、二重の唐突感が発生してしまっている。シンプルに、脚本ヘタかよと感じます。