サッチン(山本舞香)とカスミン(平祐奈)が言い合いになるシーンも、キャラ設定は個性的だし、最終的には2人の矛先が結ちゃんに向かっていくという展開はコメディタッチなのに、態度が極端なので微笑ましくならない、不快感が勝ってしまう。

 たぶん、底抜けに明るいドラマだったら成立しているニュアンスだと思うんですが、『おむすび』神戸編は「震災の傷」がベースにあって、見る側も基本的にはそういう覚悟で見ているので、こういう中途半端なコメディパートは、なんか顔に砂をかけられたような気分になるんです。だってその直後に、12年たった今でも娘の死に囚われて、社会的つながりを絶って墓の面倒を見ているだけの父親(緒形直人)が出てきたりするんだもん。

■トラジディセンスもなぁ……

 じゃあトラジディ、つまりは悲劇としてならいい感じなのかというと、そうでもない。

 その緒形直人が演じるマキちゃんパパですが、傷んだ家の建て直しを拒んでいるんだそうです。それはいいとして、人とまともに会話をしない人物として登場してるんです。この人、12年間、商店街で靴屋をやりながら生きてきたんですよね? あんな態度で、どうやって商売してきたのかというのが、全然見えないわけです。

 以前、『おむすび』というドラマについて「登場人物が連続した時間を生きていない」と書きましたが、まさにこのマキちゃんパパはそういう人だった。結ちゃんパパ(北村有起哉)に対して「神戸見捨てて、逃げたくせに」と言い放つシーンなど、まるで12年前からタイムスリップしてきた人にしか見えませんでした。

 もっと細かいところでいうと、社会人野球に進んだカッパがオフィスで働いていたシーン、なるみ姉さん演じる事務のおばちゃんがカッパたちを「あんたら野球以外何ができんの?」と罵るシーンがあるんですが、この会社は社会人野球の名門という設定だったわけで、野球しか知らない若者が毎年入社してくるはずなんです。それを、まるで初めて出会った人種であるかのように扱っている。ここも、人物が連続した時間を生きていないと感じるシーンでした。「ホンマ、毎年毎年……」って言わせれば一発で違和感を払拭できる話なのに、言わない。たぶん、こういうシーンが違和感を与えているとも思ってない。「嫌味なババァ」という記号を置くだけで満足してる。