もうひとつ、メキシコやアルゼンチンで訪ねたボクサーたちが、現地コーディネーターが驚くほどの長時間にわたって取材に応じたのだという。通常なら20分か30分、今回は数時間。その理由は「井上についての取材」だから。ボクサーという生き物は、やはり強いボクサーが好きなようだ。
「井上って、何がすごいの?」
結局のところ、直接対峙したボクサーたちの答えも、ファンと大差ないものではある。「全部のレベルが違う」としか言いようがないのだろう。
井上尚弥のボクシングは、対戦相手のすべてを奪い去っていく。悲しいくらいのウィナー・テイク・オール。敗者には何もくれてやるな。それがボクシングの世界の鉄則だ。
だが、あの日、布切れのように崩れ落ちた前王者も、ガードの上から吹き飛ばされた世界1位も、確かにボクサーであり、人間だった。この本に描かれているのは、その井上でさえも決して奪い去れないボクサーたちの人生の証明が半分、もう半分は井上と戦うことによって彼らが得た、かけがえのない財産だった。歴史上、世界中のすべてのボクサーは、井上と拳を交えた経験があるか、ないかで二分することだってできる。その希少な証言を、井上尚弥というボクサーのキャリアが太陽のように照らしている。
(文=新越谷ノリヲ)