主人公じゃなきゃ、別にいいんです。こういうやつっているよね、で済む話なんだ。だけど、私たちは結ちゃんが何を考えて、どうなっていくのかを見せられているわけでしょう。おまえの話をしろよ。
ここらへん、脚本の側が結ちゃんの立場や心情を咀嚼できていないまんま、黙秘という逃げを打っているように見えるんです。主人公が黙秘と追認を繰り返すだけでも許されると思っている。なんで許されると思っているかといえば、「人助けは米田家の家系だ」というベーシックな考え方があって、「人助けしてるんだから許されるはずだ」という短絡的な甘えがあるからです。
陽太やリサポンをしこたま傷つけても、それが「人助け」というコンセプトに基づく言動であれば美談になるはずだと思ってるんです。創作思想的な甘えを感じるし、行動ではなく考え方で話を転がそうとする作劇上の甘えも見える。
■パパもだ
今回、パパ(北村有起哉)とおじいちゃん(松平健)の不仲のきっかけについても語られました。パパはおじいちゃんが大嫌いで、大学に行く金を使い込まれたことをきっかけに床屋に弟子入りし、18歳で神戸に移住している。
震災があって実家に戻ってきて、今は農家をやってる。
おじいちゃんはパパの学資を使い込んだが、パパは「ギャンブルか何か」に突っ込んだと思ってる。
たぶん、実はおじいちゃんはこれも「人助けに使った」ということが後に美談として語られるのでしょう。
パパは理容師免許持ってるはずだし、神戸で震災にあったあとだってどこででも働けるはずです。そこまで嫌いなら糸島に戻らず床屋を続けることだってできたのに、戻ってきた。この理由も、後に「両親を助けるため」とかいう美談として語られることになるかもしれない。
互いにそれを伝えないのは、照れだとか思慮だとか、そういうことなんだろうけど、言えよって。米田家、言えよ。言わなきゃ伝わんないんだよ。
この人たちの「考えてることはあるけど、言わない。言わないけど伝われ、察しろ」という姿勢ね、そのままこのドラマの姿勢になってると思いますよ。だから全然おもしろさも言いたいことも伝わってこない。察しろというのか、ドラマを見ている側に、つまらないドラマのおもしろさを。それこそ、視聴者に対する甘え以外の何物でもないよね。
では、また明日。
(文=どらまっ子AKIちゃん)