吉永小百合の夫である岡田太郎が亡くなった。享年94。

 以下は、私が日刊ゲンダイ(9月21付)に書いた駄文だが、引用させてもらう。

《昨年暮に胆のうがんと診断されたが、その後転移。9月3日、小百合はメディアに発表した自筆の文書の中で、「最後は寄り添って看取ることができました」「大往生だと思います」と書いた。彼は日本一の果報者である。
 私のような熱狂的なサユリストたちからの“羨望”と“恨み”を一身に浴びながらも、51年の長きにわたって結婚生活を全うした。
 結婚は1973年6月。出会いは、当時、フジテレビのプロデューサーだった岡田が、小百合のドキュメンタリーを撮るために欧州旅行に同行したことだった。それから9年後、多忙と両親との確執が重なり、声が出なくなった小百合を岡田が支え、励まし、恋愛・結婚に発展したといわれる。
 バツイチで15歳も年上のジジイと何が悲しくて結婚するのか? サユリストたちはパニックに陥った。
 愛し合っていた俳優・渡哲也との結婚を両親が許さなかった。父親が金を産む娘を手放したくなかった。そうした親、特に父親のやり方に反発して、親が一番嫌がるであろう相手を選んだのではないかという噂が流れた。結婚式も披露宴にも両親の姿はなかった。
 小百合の結婚前と後に公開された映画がある。『男はつらいよ 柴又慕情』と『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』である。『柴又慕情』は福井を旅行中に寅と出会うOL役で、父親との関係に悩んでいるという設定。寅が写真を撮ってやるとカメラを構え、「ハイチーズ」という所を「バター」といって小百合が笑い転げるシーンは、彼女の若さが弾けていた。
 一転、2年後に公開された『恋やつれ』は、父親の反対を押し切って男と駆け落ちし、男の故郷で結婚生活を始めたが、2年後に夫が病死してしまった寡婦の役である。山田洋二監督の思惑が透けて見える。
 私たちサユリストは、結婚前と結婚後で、小百合がどう変わったのかを“検証”するために、この映画を何度も食い入るように見た。明らかに若い女性から“女”に変身していた。その夜は、ゴールデン街で惚けるまでやけ酒を呷った。
 結婚前、作家の遠藤周作から、「君は亭主が歯槽膿漏でも、その歯ブラシを使えるか」と聞かれ、小百合は「ハイ、使えます」と答えた。これを読んだときの絶望感を、今でも覚えている。
 私は昭和20年生まれ。小百合も同じ年だが早生まれなので、一歳上の姉貴。彼女を知ったのは連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』。映画『ガラスの中の少女』(1960公開)で彼女に恋をした。
 彼女に会えるかもしれないと思い早稲田大学に入り、雑誌編集者になった。初めて会えたのは川端康成の葬儀の時(1972年)だった。手伝いに駆り出されていた私は、川端邸の裏門で弔問客を案内していた。そこに喪服姿の小百合が一人で現れたのである。案内することさえ忘れて、その美しさに見とれて立ちすくんだ。
 その後は、雑誌の表紙撮影で2度ばかり一緒になったが、言葉を交わすどころではなく、何もせずに呆けたように彼女を見つめていただけだった。
 だいぶ前、芸能レポーターの梨元勝(故人)に「小百合の亭主の動向」を秘かに調べてもらったことがあった。元気で散歩をしていますよといわれ、ガックリきた。私は紛れもないストーカーだった。
 私のようなサユリストたちに“監視”されていた岡田だったが、結婚後はあまり表舞台には出なくなり、女優の夫として“内助の功”を尽くしていたようだ。冥福を祈りたい。
 由緒正しいサユリストとしては、半世紀ぶりに一人になった小百合を、誰に気兼ねすることなく、思いきり抱き締めてやりたい。夢の中でだけど……。》