前回のドラマでは、庭にやってきた鳥を見て、まひろが光源氏が運命 の女性――まだ少女時代の紫の上に出会う 『若紫』の内容を思いつくシーンがありましたが、『若紫』の巻より、少し先の『須磨』の巻では、右大臣家の姫君・朧月夜 とのスキャンダルが露見し、しかし正式な結婚を拒否したので罪を問われ、具体的な罰が下される前に都を逃げ出し、須磨に避難せざるを得なくなりました。そんな光源氏だからすべては自業自得なのですが、物語内ではなぜか「光る君のなんと哀れなこと!」という扱われ方で、(おそらくドラマの彰子のように)光源氏が好きではなかったり、ドラマの男性登場人物たちのように光源氏に自己投影できていない場合、意味不明な部分はたしかにあるのですね。

 物語の主人公で、帝の皇子で絶世の美男子という「だけ」の光源氏が、とにかくもてはやされ、何をしても許される異常な状況が際立つのが、そのあたりの『源氏物語』の特色ともいえるでしょう。ドラマでは、『桐壺』の巻から順番にまひろによる『源氏物語』の執筆は続いているようですから、まさに彰子も『須磨』のあたりまで読んで「なに、この話」と思っていても、おかしくはないと感じました。

 また、まひろが彰子に「殿御は皆かわいいもの」とアドバイスしていた内容についてですが、『源氏物語』にもそう思える部分があるのかどうか、気になった方もおられるでしょう。

 かつてドラマでは「熱愛の記録」ということになっていた藤原道綱母(ドラマでは財前直見さん演じる藤原寧子)の『蜻蛉日記』同様、『源氏物語』に対する『光る君へ』流の解釈といえるでしょうか。あるいは、物語の多くの女性キャラの精神年齢が、光源氏よりも高くなったとき、彼の幼稚さやワガママも許せるようになっていくケースもあるにはあるのですが(それを瀬戸内寂聴さんは「心の背丈が伸びた」などと表現)、そういう意味で「殿御はかわいい」と表現できるのかもしれません。