これは“脅迫”でもある。マツネフにとっては(あるいはヴァネッサもそう信じようとしていたのかもしれない)「光り輝く愛の物語」の終わりを許さない、過去のものにもしないと告げ、別れの手紙を綴った少女の「逃げ場」をなくそうとしているのだから。
◆「絶対的な価値観」を利用する恐ろしさ
そのほかの場面でも、マツネフからの「いかにも作家らしい文学的な表現の口説き文句」のモノローグが挿入されており、ヴァネッサがその言葉に支配されてしまう感覚がわかるようになっている。
「愛」を語るような言葉の本質はグルーミングそのものなので、観客としては嫌悪感でいっぱいになる。ヴァネッサも潜在的にはそう感じてはいるようにも見えるが、それでも搾取をされ続ける様は、耳を塞ぎ目を逸らしたくなるほどに苦しかった。
ヴァネッサは文学を愛するどころか、「偉大な愛なんて、本の中でしか知らない」とまで口にする危うさがあった。それを極端に思う人もいるだろうが、精神が不安定な思春期に「絶対的な価値観」を望むのは普遍的なことでもあるだろう。マツネフがまさにその心理につけ込んで」ヴァネッサの“同意”を促して、その後も自由意志を奪っていく様が恐ろしく醜悪に思える。
現実でグルーミングや性加害を行う者も、子どもが好きなもの、ある種の無邪気さを“利用”し、時には他の価値観との断絶を計っているのかもしれないと、より危機感を覚えるだろう。それも本作の大きな意義だ。
◆性加害者に“居場所”を与え、社会が“正常化”していた
劇中の多くで描かれるのはおよそ35年前の出来事であり、当時の子どもに性加害を繰り返していたことが明らかなはずのマツネフに社会が“居場所”を与え、小児性愛を“正常化”してしまったことも大きな問題だとも痛感させられる。
何しろマツネフは、自身の小児性愛嗜好を隠すことなくスキャンダラスな文学作品に仕立て上げており、あろうことか「既存の道徳や倫理への反逆者」として世間的には称賛された人物だったのだ。