10月20日(日)、垂井町歴史講演会「立花宗茂と島津義弘~垂井にいた西軍最強武将~」を垂井町文化会館で開催する。

講演1「立花宗茂と島津義弘」13:00~14:00、講演2「立花宗茂の生涯」14:00~15:00、対談「もし立花宗茂が関ケ原の本戦に参戦していたら?」15:15~16:00という構成となっている。

関ケ原本戦で存在したかもしれない別のストーリー


「西軍最強武将の立花宗茂がもし関ケ原の本戦に参戦していたら?」これは関ケ原合戦最大のIFストーリーのひとつであり、関ケ原合戦で多数を占める西軍ファンにとって、永遠の夢ともいうべきストーリーだ。

史実の立花宗茂は、西軍から東軍に寝返った京極高次の大津城攻めに参加し、見事大津城を落としたものの、関ケ原の本戦には参加できなかった。

しかしながら、もし大津城が寝返らなければ、大津城が早くに落城していたら、果たして立花宗茂は関ケ原の本戦に参加していたのか。大坂城に戻っていただけではないのか。今回の講演は、この問いにひとつの答えを導きだすものだ。

立花宗茂と島津義弘の関ケ原合戦前後の動向から考察

あまり知られてはいないが、立花宗茂は関ケ原で東西決戦が行われる約3週間前、島津義弘とともに関ケ原と大垣の間にある垂井に滞在していた。

九州の中小大名の多くもその後大垣城に入城しており、立花宗茂がそのまま大垣や関ケ原で戦う可能性は、大いにあったと考えられる。

西軍最強といわれる2人の武将、立花宗茂と島津義弘がともに関ケ原の本戦で戦っていたら、10,000にも匹敵するといわれた立花宗茂の3,000~4,000ともいわれる兵力の参戦効果はもちろんあっただろう。

また、西軍の士気にも大きな影響を与え、戦況を大きく変えていた可能性がある。

立花宗茂の関ケ原参戦は決して夢などではなかった。立花宗茂と島津義弘の関ケ原合戦前後の動向を追いながら、立花宗茂と島津義弘の最強コラボを考える。

戦国島津の代表的な研究者と立花家史料館の館長が登壇