しかしエチオピアは、その後の10年間でエリトリアの独立性を奪います。エリトリア独自の出版社を閉鎖し、ナショナリストを国外へ追放。エリトリアの国旗をエチオピアの国旗へ置き換え、公の場や学校でエリトリアの現地言語を使用禁止しました。また、全ての産業をアスマラからアディスアベバへ移転させるなど暴挙に出て1962年、エチオピア議会はとうとうエリトリア議会を強制解散させ、14番目の州として併合します。

エリトリア独立戦争

それに反発したエリトリアは、1960年代から内戦に突入。30年にもおよぶ独立戦争の末、1991年にとうとう独立を果たします。

「アフリカの北朝鮮」と揶揄される独裁政権

その後、現在に至るまでエリトリアは一党独裁制が続いています。今やエリトリアは「アフリカの北朝鮮」とも呼ばれるまでに。その独裁ぶりはなかなか酷く、一般国民は18歳になると政府支配下の農民か兵士を含む低賃金、又は無賃労働の奴隷的公務員となることが55歳まで義務付けられているようです。このため、人口の約80パーセントが生産性の低い農業と牧畜に従事するも、耕地はエリトリアの面積の2パーセントに過ぎず、食料の約70パーセントを輸入や人道援助に頼っています。これを嫌気して国外に出る若者が絶えないのだとか。

リアルな「ニュー・シネマ・パラダイス」首都アスマラ

そんなエリトリアの首都アスマラですが、イタリア時代の影響を受けたヨーロッパ風の街並みやイタリア語の店名などが多く残るモダニズム都市として有名です。標高約2,300メートルの高地に位置し、夏でも最高気温が25度を上回ることが少なく過ごしやすい気候のため、アスマラがイタリア領エリトリアの首都となった1900年に、イタリア人移民が大勢やってきて、人口の60%を占めるまでになりました。

この時、イタリア首相であったベニート・ムッソリーニは、アスマラを「第2のローマ」にすべく1920年〜1930年代にイタリアの新進気鋭な建築家を投入。奇抜なアール・デコや未来派建築が多く建設されました。それらの建築は今現在でも残り、2017年には「アフリカのモダニズム都市」として世界遺産に登録されまています。