果(はて)なくも 思ひけるかな 乳(ち)もなくて 博士の家の 乳母(めのと)せむとは
(意訳:乳の出も悪いのに学者の家の乳母に応募してくるとは、なんと馬鹿な女だ)

 これを聞いた赤染衛門は、乳母の女性をかばおうと、次の歌を返しているのです。

さもあらば あれ大和心(やまとごころ)し 賢(かしこ)くば 細乳(ほそち)に附けて あらすばかりぞ
(意訳:たとえお乳の出が悪くても、応用力がある本当の意味で知的な女性であればよいのです。乳母として家においてあげましょう)

 赤染衛門にとって、乳母とは、子どもたちにとっては最初の先生でもあるのだから、お乳の出といったことにこだわってはいけないという考えだったのでしょうね。まぁ、いざとなれば赤染衛門自身が我が子に乳を飲ませるつもりだったのかもしれませんが、夫婦喧嘩の些細な部分まで1000年以上も後の現代まで残されているのは、本当に奇跡的なことではあります。

 ちなみに文献に「大和心」という言語が登場する最初期の例が、この赤染衛門の歌といわれています。紫式部の『源氏物語』にも「大和心」という単語は見られますが、当時において「大和心」という単語に「愛国心」とか「武士道精神」といった意味はまったくありませんでした。「中国から日本に輸入された最先端の知識を、応用・解釈できる知的能力」という意味しかなかったのですね。

 それにしても赤染衛門と大江匡衡の夫婦ゲンカを見ていると、日本人は「0」から「1」を生むのではなく、「1」の可能性を無限に広げるほうが得意といわれがちなのですが、平安時代からすでにそういう国民性があったのかもしれない……と思いを馳せてしまう筆者でした。

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