なんか勝手なことをやり始めたなぁという感じなんです。そりゃドラマを作ってる人がドラマで勝手なことをやるのはいいんだけど、それにしても何やってんだろうと。
有能だけど今風な働き方をしている3人の女性が居酒屋にいながら与えられた情報を解析して事件を解決していくという、いわゆる「安楽椅子探偵モノ」だとドラマが言うからそのつもりで見てきたし、どうにかこうにかこの3人を愛したいと思ってきたんですが、その3人のキャラクターが確立する前に捨てちゃった感じがするんですよね。ドラマが3人の主人公を見放してしまった感じがする。
1話と2話で、こういうテイストのミステリーにしてはずいぶん凝った謎を作ってるな、不自然だなという印象があったんですが、やりたいのはこっちだったんですね。3人の個性的な女性のキャラクターを活かして明るく楽しく謎解きをするのではなく、「大掛かりな謎を作ってるぜ」という主張をしたかったわけだ。この設定を視聴者に受け入れさせたうえで、主人公に容疑をかけて安楽椅子から引きずり下ろして現場に巻き込んだわけですから、こうなりゃ戦争です。作り手と見る側の戦争なんです。
この感触には覚えがあります。
昔、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84)という映画がありました。誰もが愛した『うる星』のラムちゃんとあたるという国民的キャラクターを使って、押井守が好き勝手に自分の世界観とやりたいストーリーを押し付けてきた二次創作みたいな映画でした。その映画は傲慢で、奇妙で、たいへん美しくて、すんごくおもしろかった。結果としてすんごくおもしろかったし、「こんなのは『うる星』じゃねえ」という批判は今でも渦巻いています。40年もたってるのに、いまだに「あんなのは『うる星』じゃねえ」と言ってる人がいるんです。
『ギークス』でいえば、第4話までがテレビ版『うる星』で、第5話から『ビューティフル・ドリーマー』が始まったんだと思います。そして第5話の出来から見て、今回の『ギークス』版『ビューティフル・ドリーマー』はあんまり信用できない気がしている。結果としてすんごくおもしろくなればいいけど、あんまりそうならないような気がしている。