コネと実力、女官として必須のものをすべて持っていた

堀江 翌・大正13年には、島津家の親戚にあたる久邇宮家の良子(ながこ)女王と、裕仁皇太子(のちの昭和天皇)がご成婚あそばされます。すると、島津ハルも東宮宮女官長という重職にスピード出世しています。

――コネと実力、女官として必須のもの全てを島津ハルさんは持っていたのですね。

堀江 はい。当時の島津は青山南町に夫・島津長丸(ながまる)男爵、そして夫との間にさずかった二男四女と暮らし、妻として、母として、そして当時の日本で最高のステイタスを誇るキャリアウーマン・女官としても輝いていたのでした。

 大正15年、大正天皇が崩御なさると、裕仁皇太子が天皇にご即位あそばされます。島津ハルの仕える良子女王も皇后となりました。島津の位もあがり、彼女は皇后付きの女官長に就任するのです(正式には「女官長心得)。当時、島津は48歳。女官長としては異例の“若さ”でした。

 この時が、島津ハルの人生の幸福の絶頂期であったことは間違いありません。しかし、そのわずか約40日後に運命の暗転が訪れます。

 ちょうど昭和天皇の即位式である「即位の御大礼」を間近にした時期でした。そんな大事な時に夫・島津長丸が病を得て、急死してしまったのです。“死の穢れ”を忌み嫌うのが皇室です。その行事をとりしきるべき女官長として、島津ハルがこのまま勤められるわけもなく、泣く泣く依願退職せざるをえなくなったのです。