2015年、秋。私はどん底にいました。夫の海外転勤が、目の前に迫っていたからです。
「駐在員の妻になれるの? 素敵!」
と、20年前なら羨ましがられたでしょうか。
ですが、現実は過酷。先進国への駐在ともなれば、日本企業の駐在員は物価高に押され厳しい暮らしを強いられます。そんな環境へ何年いるかもわからない、言語も文化も違うところへ放り出される夫のストレスを考えれば、同行したい。
しかし、それは正社員のキャリアを手放すことを意味していました。
元激務OL、ワークライフバランスを手にして適応障害になる
大学を出た私は、新卒で激務と知られる外資系企業へ就職。やりがい、成長と引き換えに、朝から晩まで仕事漬けでした。一瞬一瞬が全部輝いていた! と断言できる、楽しかった仕事の数々。けれど、体調を崩す人が後を絶たない職場。
「楽しいけど、このままじゃ20代のうちに倒れる」
と、転職を決めて26歳。こんどは、ワークライフバランス重視の企業で、毎日18時に帰る新しい日々。本来なら改善したはずの待遇。そこで私は、新しい生活に適応できませんでした。
深夜まで「よっしゃ! やったるで!」と声を上げて、励まし合う。毎日がお祭り騒ぎのような会社にいた身にとって「早く帰らされる」ことの恐怖は大きかったのです。干されているのではないか。本当にこの働き方で評価されるのか。日々、不安が膨らんで押しつぶされそうでした。
めまいがして「軽い適応障害ですね」と、診断がおりて。さあどうする。症状も軽いし、休まず踏ん張ってみるか、それとも一度休職するか。そんなとき、自分を救うために始めたのがTwitterとブログでした。
Twitterとブログで、自らを「激務時代」のサイクルに戻す
とはいっても、別にSNSマーケティングのプロだったわけでも、何でもありません。SNSもブログも、アカウント自体は以前から持っていました。
ですが、それまでは普通の日常をつづるものばかり。「退勤なう」くらいしか投稿しないため、フォロー・フォロワーは両方とも知人友人ばかりでした。
しかし、時間ができた私には書きたい言葉があふれていました。
いくつか、私が初期に書いていた文をまとめてみます。
- 総合職では30代から本格的に仕事を任される企業が多いが、30代は女性が出産・育児で最もキャリアの穴を開けやすい時期。そのため、女性は本人が望まない形で出世コースから外される。せめてなぜ、それを就活の時点で教える人がいなかったのだろうか。
- 陰湿ないじめがはびこる地方都市から、根性で這い上がった大学進学。しかし、私は地方の人間を許せなくなっていた。「努力をしないから、底辺になるのだ」と思ってしまった。階層を上がった人間は、下の人間を許せなくなる。自分の人生は自分で何とかできると思ったら、それは生存者バイアスの始まりだ。
- 男性が家に遊びに来た。それだけで「性的に同意」したこととなるのはなぜだろうか。家に上げるうえで、「いい?」と聞くのはわかる。だが、聞かずに行為を強要するのは、性暴力ではないか。家に来た時点では、まだ友達か性的な対象かは、ハッキリしていないのだから。
……堰(せき)を切ったように、言葉がブログとTwitterに漏れ出して。ありがたいことに、フォロワーが5,000人、10,000人と増えていき、そしてこんなメールをいただくようになりました。
【ご執筆のお願い】
ここから、私の人生は本格的に変わり始めます。