史実の康政は、ドラマで描かれる以上に軍法に長けた知将であると同時に、槍働きでも十分な成果を挙げる猛将でもありました。それゆえ、家康の参謀としての活動だけが目立つ本多正信のことを、「味噌や塩の勘定ばかりやっている腸(はらわた)の腐った者」とか「佐渡の腰抜け」と罵ったという話が江戸時代に書かれた諸書に見られます。ちなみに正信の悪口が「佐渡の腰抜け」である理由は、朝廷から正信に与えられた官位が「佐渡守」だったからです。

 晩年の家康の中では、康政は変わらず頼れる家臣だという認識だったことが、先程の『御実紀』の逸話でも示されていると考えられます。しかし康政としては、正信が自分よりも重用されている事実から、家康の家臣として第一に期待されるものが「槍働き」から「政策の立案」に変わりつつあると感じていたはずです。若き日の康政が、本多忠勝、井伊直政らとともに戦場を駆け巡ったときのような、家康との一体感は薄れていたはずですね。

 康政が館林に半隠居のようになった理由は実は謎で、幕末の『名将言行録』には「老臣権を争うは亡国の兆しなり」、つまり「若い世代に政治を任せなければならない」といって、康政が自ら決断し、距離を置いていたという説が紹介されています。確かに、「徳川四天王」である康政よりも以前に、若年の大久保忠隣、そして本多正純(本多正信の長男)がひと足先に老中に就いており、康政としては、いくら形だけ老中にしてもらったところで、もはや潮時だと考えてもおかしくはないでしょう。

 康政が家康と距離を置くことにした理由については他にも説があり、江戸時代初期に軍学者・山鹿素行が記した『武家事紀』という史料によると、家康からの冷遇(=領地の加増を行わなかったこと)に憤っていたからだそうです。もっとも、領地に関しては関ヶ原以降も10万石で十分であると康政から申し出て、そのとおりになったというエピソードもあるので、本当のところはよくわかりません。