幸せな瞬間ほど感じる子供たちへの罪悪感
そのステージに至った母親・私。
そんな私はK-POPのファンで韓国に限らず海外にまでライブを見に行くほど熱狂的なオタクです。
アイドルオタクというよりは、K-POPの音楽やステージパフォーマンスからそのマーケティング手法に至るまでエンタメとしてのK-POP全般に惹かれ、K-POPを研究する韓国の社会学者の書物まで読み漁る始末。
そんな熱量を持っていざ目にする彼・彼女らのステージは私の生きる意味であり最高にときめく瞬間なのです。
その瞬間は、ただのファンであり、ピュアな少女であり、何物でもないただ一人の“自分”に戻れる時間。
しかし、子供も喜んで留守番をしてくれるようになった私ぐらいの母親でも、そんな唯一無二の時間に限って子供のことはふとよぎる。私のそばに“理想の母親像”がついて回る。
母親を13年やって、サラリーマンとしてそれなりの壁を乗り越え、何より子供が立派に成長しつつある今なお、その最高に自分が幸せを感じる瞬間にさえ子供たちへの罪悪感がゼロにはならないという現実。
これは一体なんなのだろうか。
いつまで続くのだろうか。
たった数日の「100%私だけの時間」
誤解されたくないのですが、私は娘2人が死ぬほど大事で、その名の通り2人のためなら命だって差し出せるかもしれない。
そして、その昔ながらの“理想の母親像”をベストではないにしろベターだと思っていて、基本的には捨てることができていない母親だという自覚もあります。
でも、365日のうち数日だけのその私がフィーバーできる時間に、100%自分だけを愛し自分の快楽に没頭することができない現実にはずっと戸惑っている。
それを母としての幸せと捉えるか、一人の人間として他者に縛られてしまっていると捉えるか。
絶望とまではいかないけれど、答えは出せぬまま少しのもやもやを抱えていることは事実で、“理想の母親像”が呪縛として今も私の中にくすぶっていることの証明なんだろうなと薄々感じているところです。
これは、娘が成人したら晴れて「お役御免」と罪悪感が消えるのだろうか。
子供を産んだあの瞬間から、私には「母親」の名札と人格が付いて、死ぬその瞬間まで「母親」であることは絶対なのだろうと思っています。
それはきっと幸せなことで、少なくとも娘たちを愛する私にとってはかけがえのないことなのでしょう。
でも、たった数日のそうじゃない「100%私だけ」の時間も与えてもらうことはできないのか。許してもらうことはできないのか。
私の希望は「100%自分に没頭したい」であり、「してもいい」環境がきちんと与えられているのも分かっています。
だけど自分が楽しんでいる時ほど、浮かぶ子供たちの顔。
良い悪いの答えを出したいのでも、解決策を見出したいのでもありません。
ただ、100%自分だけを愛してあげれられる時間が今の私には無いこと、これからも無いかもしれないことが、自分が可哀想なような、さみしいような、そんな気持ちから、母親としての私を一瞬でもいいから捨ててみたいとも思う―。
もしそこに幸せがなければ、今まで通りの私を好きになればいいだけだから。
いつか、そんな瞬間が訪れたら、その時はまたきっと新しい自分と母親像に出会えるのでしょうか。
私の“理想の母親像”との葛藤はまだ続いているようです。
<ライタープロフィール> タピオカあさみ
30代/K-POPファン歴16年/歌とダンスのエンタメが大好きで月イチでK-POPの海外公演に行くことが生きがい/仕事も子育ても自分の好きなことも全部諦めずに楽しい毎日を送ることが目標のワーキングマザー
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