“少数の意見を大事にする” 大島監督の考えが反映されたPFF審査員の推薦制

「ぴあフィルムフェスティバルと大島渚の時代」連続インタビュー①犬童一心×手塚眞×小中和哉 「映画祭の場で、はじめて自主映画を作っている同世代に出会った」
(画像=『HIGH-SCHOOL-TERROR』、『ぴあエンタメ情報』より引用)

──PFFに名称が変わった1981年の第4回では、手塚監督の『HIGH-SCHOOL-TERROR』(1979年)、笹平剛(現・利重剛)監督の『教訓 I』(1980年)と成蹊高校映画研究部の作品が2本入選しているのに加えて、黒沢清、松岡錠司、緒方明、飯田譲治と錚々たる名前が入選作に並びます。

手塚 聞いた話ですが、どうやって入選作を決めるかというときに、投票制にしたらという意見に、大島さんが少数の意見を大事にするということで、審査員の推薦制ということになったと聞きました。

小中 PFFって推薦者が必ず明記されていましたね。

犬童 手塚くんを推薦してたのは誰?

手塚 僕は大島さんと大林さん。大島さんは僕を選んでくださったから、その後も責任を持たれている感じがしたんですよ。少し後で日本文化デザイン会議というイベントがあったんですけど、そこで大島さんが映画のコーナーを仕切られて、シンポジウムは大島さん、大林さんがいて、ドナルド・リチーさんや松田政男さんたちもいるところに僕もゲストで呼ばれたんです。

そのときの参考上映会が、小津安二郎の『お早う』(1959年)、大林さんの『転校生』(1982年)があって、僕の『FANTASTIC★PARTY』(1978年)と『MOMENT』(1981年)、それから小中くんの『いつでも夢を』(1980年)ともう1本ぐらいあったと思うけど、8mmと小津さんの映画を一緒にかけるという、とんでもないことをやったんです(笑)。

犬童 それを1日でやってるの?

手塚 一気にやってる。そこに大島さんの覚悟を感じたんですよ。大島さんからは一度もおっかないこと言われたことなくて。その後も、ずっと優しかったですね。