本作の原案となったのは、2011年に刊行された小笠原恵子さんの半生記『負けないで!』(創出版)。小笠原さんは格闘技が好きで、空手やキックボクシングなど、さまざまなジムに通ったそうだ。しかし、ボクシングはハードルが高く、最初のジムでは練習試合も組ませてもらえなかった。聴覚障害があることを不安視されたためだった。

 小笠原さんはその後「真闘ボクシングジム」に移り、プロテストを受け、プロデビュー戦に臨むことになった。ジムを経営する佐々木隆雄会長との出会いが大きかった。視力に障害を持つ佐々木会長に「もっと積極的に、明るくなりなさい」と励まされ、殻にこもりがちだった小笠原さんはジムに毎日通い、練習に打ち込むようになった。2人の師弟関係は、映画でもストーリーの主軸として描かれている。

 三浦友和演じるジムの会長は一度患った脳梗塞が再発する危険性があり、視力も大きく落ちていると医者から告げられていた。街の再開発が進んでいることもあり、長年続けてきた老舗ジムを閉じる決心をする。

 練習生がすっかり減ってしまったジムで、鏡を前にして会長とケイコが並び、一緒にシャドーボクシングに励む。シャドーボクシングの相手は、鏡に映ったもう一人の自分だ。ケイコも会長も、もう一人の自分と闘い続けてきたことが分かる。親子のような2人が並んで黙々とトレーニングする姿は、本作のハイライトシーンと呼んでいいだろう。感極まったケイコは、練習中に思わず涙を流してしまう。

 主人公であるケイコは、劇中ではひと言しか言葉を口にしない。だが、ケイコはボクシングを通して、怒り、悲しみ、泣き、そして笑う。誰よりも感情豊かな人間である。そのことをいちばん理解していたのが、ジムの会長だった。

 本作はボクシング映画ではない。少なくとも試合に勝つか負けるかは焦点にはなっていない。この映画はボクシングという肉体言語を使ってコミュニケーションする人たちの物語なのだ。

 岸井ゆきのはブレイク作『愛がなんだ』(19)や『神は見返りを求める』(22)など、コメディエンヌとしての人気が高いが、3カ月間のボクシングトレーニングと手話の練習を積んだ本作でのシリアス演技も目を見張るものがある。

 いわゆる美人女優ではなく、アクションものをやるにも小柄な岸井ゆきのだが、どんな役でもひたむきに演じる姿が魅力的だ。安藤サクラ主演作『百円の恋』(14)などでボクシング指導にあたった松浦慎一郎が劇中のトレーナー役も兼ねて、岸井のトレーニングに付き添っている。

 三浦友和演じる会長が、ケイコのことを尋ねる記者にこう答える。

「才能はないかなぁ……。小さいし、リーチもないし、スピードもない。でも、人間としての器量がある」

 共演者である岸井のことを評しているかのようだ。その人の生き方が反映されるボクシングと俳優業は重なる部分があるように思う。

 パンチが鮮やかに決まれば気持ちいい。だが、殴られれば当然だが痛い。ボコボコにされれば、戦意を失ってしまうことになる。ボクシングも、言葉によるコミュニケーションも一緒だ。自分のしゃべりたいことだけを一方的にしゃべっても、ずっと黙っていても、コミュニケーションは成り立たない。むき出しの魂と魂がぶつかり合うことで、初めてそこに何かが生まれる。