外出の際はマスクをするのがコロナ禍以降の常識であり、マナーだろう。そう思ってマスクをずっと着用していたが、一部の人にはマスク越しの会話が負担になることを初めて知った。映画『ケイコ 目を澄ませて』の主人公・ケイコは聴覚に障害があり、手話が通じない相手との対話は口の動きを見て、話しの内容を判断している。そのため相手がマスクをしたままでは口の動きが見えず、会話が成立しなくなってしまう。

 岸井ゆきのが主演した映画『ケイコ 目を澄ませて』は実在の女性ボクサーをモデルにしたボクシングものだが、コミュニケーションをテーマにした作品でもある。劇中、岸井ゆきのが発する音声としての台詞は「はい」というひと言だけ。だが、そんなひと言の「はい」だけでも、この映画は感情豊かな物語として成り立っている。

 小河ケイコ(岸井ゆきの)は生まれつき聴覚に障害があるため、手話やホワイトボード、スマホのLINEアプリなどを使って会話している。昼間はホテルの清掃員として働き、仕事が終わると下町にある古いボクシングジムへと通う。荒川沿いを走るロードワークも欠かせない。熱心に練習に励むケイコだった。

 すでにプロテストに合格し、プロデビュー戦は白星で飾った。第2戦はかなりの激闘となる。ゴングが鳴る音、レフリーの声、セコンドの指示が聞こえないという、かなりのリスクを負っているケイコだが、リングだけが彼女がむき出しの魂のままで過ごせる場所だった。周囲の余計な雑音や客席からの罵声も聞こえないというメリットもある。何よりも障害者扱いされることを、ケイコは嫌った。

 ジムの会長(三浦友和)、トレーナーの林(三浦誠己)と松本(松浦慎一郎)はケイコのことを理解しており、彼女には口の形が分かるように大きく、ゆっくりと話し掛ける。トレーニングが始まれば、ケイコもミットを持つトレーナーたちも自然と体が動き、濃厚な時間が流れていく。

 ジムでは不自由なく過ごすケイコだが、街へ出るとマスクをした人ばかりで、ケイコは途端にコミュニケーションしづらくなる。ミュージシャンを目指している弟・聖司(佐藤緋美)と一緒に暮らしているが、弟の手掛ける音楽もケイコは聴くことができずにいた。

 ろう者であるケイコが見つめる街の風景は、聴者が見ている風景とは違っているようだ。そんなケイコが見つめる世界を、『きみの鳥はうたえる』(18)で注目を浴びた三宅唱監督がスクリーン上に映し出していく。16ミリフィルムで撮影された世界は、どこかザラついて感じられる。