Google Mapなどでいつでもどこでも自由に地図が見られる現代ですが、GPSも通信衛星もない時代、自らの足で精密な地図を作り上げた人物がいます。かの有名な伊能忠敬です。
50歳で家業を引退してから、第二の人生で天文学に没頭し、そして結果的に日本史に名を残す大事業を成し遂げた彼のスゴさとヤバさについて、『ヤバい科学者図鑑』を上梓した、国立天文台水沢VLBI観測所所長の本間希樹先生に、解説してもらいました。
リタイア後にゼロから天文学を勉強した伊能忠敬
伊能忠敬は、日本全国各地を歩いて(!)測量し、はじめて精密な日本地図をつくったことで知られています。
彼は酒屋として大成功した実業家で、いまなら数十億円の資産を持つスゴ腕の社長でした。ところが、50歳で仕事をやめると、「前から暦や天文学に興味があったから勉強しに行く!」と江戸へ。
いまならば定年退職後に新しく勉強をはじめるようなもので、そのチャレンジ精神はアッパレです!
江戸では幕府天文方ではるかに年下の高橋至時(当時31歳)に弟子入りし、天文学や測量について学びます。そして伊能は地球の大きさをはかるために、星の高さを観測しながら蝦夷地(現在の北海道)まで行くことを考えました。しかし、地球の大きさを測るためだけだと旅の許可がでないので、測量して地図をつくることにして幕府の許可をもらおうとしました。
幕府に申しでると「最近は外国から攻められそうで困ってるから、地図をつくってくれるならよかろう」と許されます。
このような流れで、地球の大きさをはかることを目的として、測量による日本地図作りという大事業が始まったのです。
20年間かかって、日本中を歩いて測量!
それから、伊能らは全国の沿岸部を一歩ずつ歩きながら、ひたすら測量してまわります。日本全国を歩いて回るわけですから、とてつもなく時間がかかりました。地図を完成させるまでにかかった時間は、なんと20年以上!
なお、伊能忠敬が測量した距離はおよそ4万キロメートルと言われています。これは、地球1周分とほぼ同じ距離でした。
また、測量旅行には宿泊費や輸送費、人足代など大変なお金がかかります。地図づくりをする際、幕府は全部の費用は出してくれなかったので、最初のころは足りない費用を伊能忠敬が自分のポケットマネーから支払っていたそうです。やりたいことがあるときは、自腹でもトライするという姿勢があったからこそ、地図作りを実現できたといえるでしょう。
地図が完成した時、伊能はすでに亡くなっており、師匠である高橋至時の子ども、高橋景保の協力もあってようやく地図は完成しました。大きなことをやるには、仲間と一緒に、地道にコツコツことがやることが本当に大切なのです。