沖縄本島及び周辺の離島に300か所以上存在するといわれる「グスク」。世間一般でいう「城」の役割と同時に、聖域(御嶽、ウタキ)としての役割も果たしていたとされます。復元されたスイグスク(首里城)を除き、どのグスクも石垣しか残っていませんが、その日本離れした姿は見る者を飽きさせません。今回は、今でも多数残るグスクの中で特に代表的なものを紹介します。グスクの美しさだけでなく、グスクが琉球王国の歴史の中でどのように活躍したのか、そしてグスクを回る上でたびたび登場する人物、護佐丸にも注目していきましょう。
首里城に次ぐ規模!全長1.5キロの石垣を持つ今帰仁城跡
グスクめぐりをする上で、今帰仁城跡を外すことはできません。このグスクは沖縄本島の北部にある本部半島にあります。スイグスク(首里城)に次ぐ規模を持ち、石垣の総延長は1.5キロもある広大な城跡です。
今帰仁城は13世紀に何者かによって築城されました。14世紀頃の沖縄は北部を北山、中部を中山、南部を南山がそれぞれ支配していた「三山分立の時代」でした。中国の歴史書『大明実録』に登場する北山の王は初代が怕尼芝(ハニジ)、2代目が珉(ミン)、3代目が攀安知(ハンアンチ)であり、彼らは今帰仁城を本拠地にしていました。
しかし1416年、中山の尚巴志(ショウハシ)によって北山は滅ぼされることになります。尚巴志はスイグスクを改修して居城とし、今帰仁城には沖縄本島北部の監視のために北山監守を派遣しました。
北山が滅びた後も城として生き続けた今帰仁城ですが、1609年の薩摩藩の侵略の際には攻撃目標にされ炎上、焼失します。ですがその後も御嶽(ウタキ、聖域のこと)として愛され続け、現在に至ります。
美しくうねる石垣と大自然の緑が美しい今帰仁城跡ですが、そういった歴史も踏まえた上で見るとさらに楽しめます。これから紹介する他のグスクも、沖縄の歴史をふり返りながら見学することをお勧めします。
北山を破った名将が築城!曲線美が魅力の座喜味城跡
座喜味城は15世紀に護佐丸によって建てられました。西洋の城壁を思わせる美しいアーチ形の石門や、大きくうねった城壁が美しい城です。
護佐丸の曽祖父は元々今帰仁城の城主でしたが、北山の侵略により滅ぼされたといわれています。尚巴志が北山を侵略する際、護佐丸は20代の若者ながら参戦し、勝利に貢献します。
今帰仁城の城主の血を引いていた護佐丸は北部監視の要職に任命されると共に、尚巴志が住むスイグスクを守るため、座喜味城の築城を命じられます。
護佐丸が築城の名手といわれるゆえんとなったこのグスクは、今帰仁城跡と違い直接石垣に登ることができます。石垣の上から見るとその「うねり」がよく分かります。近くから見られる分、その迫力は今帰仁城跡以上かもしれません。
琉球王国に反抗する阿麻和利の居城だった勝連城跡
沖縄本島中部の東にある勝連半島。そこには勝連城跡があります。阿麻和利(アマワリ)という人物の居城で、大きく湾曲した長い階段が印象的なグスクです。階段を登りきった一の曲輪(くるわ)からは中城湾を一望でき、景色目当てで登るのもお勧めです。
この阿麻和利という人物ですが、勝連半島を支配下に治め海外貿易で力をたくわえていました。勝連に伝わるおもろ(歌)で称えられるほどの名君としても知られ、琉球王国も無視できないほどの力を持つ人物でした。
護佐丸は琉球王国に命じられ、阿麻和利をおさえるために中城城へと移ることになります。