日本寄付財団は、子どもや高齢者、発展途上国への支援、伝統文化や芸術の復興といったあらゆる社会課題解決のために活動している団体です。このたび、日本寄付財団代表理事の村主悠真さんと、日本を代表する音楽評論家・作詞家の湯川れい子さんとの対談インタビューが実現しました。湯川さんの体験を基に、女性が社会で活躍することの大変さなどについて語っていただきました。
アメリカで受けたカルチャーショック
村主 僕は19歳で起業してから、会社を大きく成長させ、その後また新しい会社を作るということをずっと繰り返していましたが、どこまで行けば自分が満たされるのかをずっと考えていました。
湯川 お金を稼げるというのは、本当にすごい才能ですよね。
村主 そんなことはないです。残念ながら僕からすると心の底から満足をしたことはなかったんですよね。
湯川 わたしの人生と村主さんの人生は正反対かもしれません。わたしの今までの人生は、お金持ちとハンサムにはご縁がなかったと思います(笑)。
村主 エルヴィスやビートルズなど、ハンサム過ぎるスターとはたくさんご縁があったのではないでしょうか?
湯川 お仕事では恵まれましたが、個人的にはあまりご縁がありませんでしたね。お金に関してもそうです。東京オリンピックのあった1964年に海外渡航が自由化され、500ドルの持ち出しが許されましたが、当時は手元のお金をかき集めてニューヨークへ行ったんですよ。
村主 当時と今とでは、貨幣価値が違うのでホテル代や飛行機代などを考えると、500ドルでは全く足りませんよね?
湯川 全然足りませんでした。ですので、旅行会社に24回払いのローンを組んでもらって、やっと行くことができました。
村主 そこまでのローンを組んでまでの一大イベントだったんですね!ちょっと旅行に行こう、という軽い感覚では全然なかったんですね。初めてのニューヨークはいかがでしたか?
湯川 ご老人の女性たちが、すごくおしゃれでした。赤いコートを着たり、真っ赤なマニキュアを塗ったり。日本で40歳を過ぎてそんなことをしていたら、頭がおかしいのでは?と言われましたから(笑)。ニューヨークでは歳をとっても自分の好きな格好をしてもいいんだ、といい意味でショックを受けましたね。
仕事を通じて感じた思い
湯川 わたしは本当に何もない側の人生を歩いてきたので、女性への肩たたきがあった時代に、女性が1人で仕事をするというのは、本当に大変でした。
村主 そんな中、湯川さんが戦ってこられて、今の日本の女性の立場がどんどん上がってきたのだと思います。
湯川 わたしは戦ってきたつもりはありませんが、当事者の一人として、声をあげることはやってきましたね。けど、こうした方がいいなんて言っていると、それはやめた方がいいのではないかと反論されることもあり、男社会の音楽業界の古さをとても感じていました。
村主 そのような男性社会の古い体質を目の当たりにして、じゃあ辞めます、とはならなかったのでしょうか?
湯川 だって辞めたらオシマイでしょう?それで気づいたのは、1966年にビートルズが武道館でコンサートを行ったときです。若い女の子たちがキャーキャー言っているのを、警備員の男の人たちが怒っている現場を見たとき、何をそんなに恐れて高圧的な態度を取っているのだろう?と思いました。そしてひょっとしたら、彼らはヤキモチを焼いているんじゃないかということでした。
村主 コロナ禍の音楽業界はいかがでしたか?
湯川 とても苦境に追い込まれました。ライブハウスは半分ぐらいになってしまったのではないでしょうか。コロナ禍では、このような人々への行政の保護が薄いと感じています。もちろんわたしの認識を変えていくことも必要ですが、若い人たちには、選挙に行ってもらって、大きな変化を起こしてほしいですね。