服は着て初めて、そこに意味が立ち現れる
いくら服をたくさん持っていても、その服を着ないのなら、それは存在しないのと同じこと。
服というものは、誰かが着て初めてそこに意味が立ち現れます。見ているだけ、触っているだけでは、まだそれは単なる品物にすぎません。しかし、その単なる品物に誰かが袖を通し、脚を入れたときに、服そのものにあたかも生命が宿ったかのような瞬間が訪れ、それは時に騎士のように着る人を外敵から守り、道化のように着る人を楽しませ、愛馬のように着る人をどこかへ連れていってくれるものへと変容するのです。
誰かが着ない服があるのなら借りればいい、もしくは私の着ない服と交換してしまえばいい、そう考えて、それ以来、お金があるときもないときも、私はいろいろな人と服をシェアしたり、交換したりを繰り返してきました。
クローゼットには、今では着ることのない服が眠っている(写真はイメージです)
ほとんどの人のクローゼットには、今では着ることのない服が眠っています。問題なのは服をシェアしたり、交換したりする相手がいるかどうかです。
同じような趣味嗜好で、シェアや交換を提案できるほどの仲の良さがあるか、または柔軟な精神の持ち主で、シェアや交換に抵抗がない人が望ましい。
シェアや交換でお互いのおしゃれの幅も広がっていった
幸いなことに、そういう人たちが私の周囲にはいつもいました。
特に20代女子とシェアハウスをしていた期間は、お互いのワードローブをシェアするのは当たり前。もう着ないと決めたものは交換、もしくはあげてしまうのは日常茶飯事。そうすればするほど、新たに何かを買わなくても、自分のワードローブは拡大し、おしゃれ心が満たされるだけではなく、お互いのおしゃれの幅も広がっていきました。
今回ご紹介するブラウスも、そんなふうにして仲が良い友人と交換したもの。私が相手に渡したのは、自分に合うと思ったサイズを買ったものの、最近のビッグシルエット流行りのせいもあって、どうにも我慢できないほど大きくて、だんだん着るのが嫌になってきたパンツ。
それに対して私がもらったブラウスは、友人が古着として購入したワンピースを、ウエストからカットしてリメイクしたものの、友人が自分で着るには小さいということでした。私にとっては大き目なパンツと、友達にとっては小さ目なブラウスを交換することで、お互いぴったりのサイズのものが着られるという結果になりました。