2021年の大河ドラマ『青天を衝け』で主人公として取り上げられることが発表された渋沢栄一。2024年上期を目処に新1万円札の顔となることでも話題となりました。渋沢栄一と言えば「日本資本主義の父」と称されることもある実業家です。数多くの企業や教育機関の設立に尽力したことでも知られており、日本初のシリアルアントレプレナー(連続起業家)と呼ぶにふさわしいのが渋沢栄一なのです。今回の記事では、そんな渋沢栄一の波乱万丈の生涯を駆け足でたどってみましょう。

少年期に藍葉の仕入れで商才を発揮

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渋沢栄一は1840年3月16日に現在の埼玉県深谷市血洗島村で農業を営む父・渋沢市郎右衛門の長男として生まれました。幼少のころより父親から学問の手ほどきを受けたほか、いとこの尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)からは論語など四書五経を学んでいました。

渋沢家は豪農として知られ、伝統的な藍染めで用いる「藍玉」の製造販売に加えて養蚕や米、麦、野菜などの生産も行っていました。少年時代の渋沢栄一は、父親に連れられて「藍玉」のもとになる藍の買い付けに行くなど、家の仕事を手伝っていました。

次第に一人で仕入れを手がけるようになり、自ら鑑定して質の良い藍葉を買い付けるなど、その商才を発揮していきます。

倒幕運動から徳川慶喜の家臣に

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渋沢栄一は、学問だけでなく「幕末三大流派」の一つとしても知られる神道無念流の剣術も学んでいました。青年期には、江戸に出て坂本龍馬を輩出した北辰一刀流の剣術道場に入門。倒幕運動に加担する勤皇志士との交流も影響し、次第に天皇を尊び外国を追い払う「尊王攘夷」の思想に目覚めていきます。危うく未遂に終わったものの、渋沢栄一は幕府を倒す計画も立てていました。

このことが原因で父親から勘当された体裁を装って京都に逃げるものの、時期が悪く勤皇派が反クーデターによって押さえ込まれた直後でした。そのため江戸にいたころの知り合い一橋家家臣・平岡円四郎のつてを頼り、一橋慶喜のちの征夷大将軍・徳川慶喜に仕えることになります。

価値観を変えたヨーロッパ訪問

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1866年に主君・徳川慶喜が将軍になると渋沢栄一も徳川幕府に仕える幕臣となり、翌1867年に27歳の渋沢栄一に転機が訪れます。パリで万国博覧会が行われるため、徳川慶喜の実弟・徳川昭武に随行してフランスへと渡航したのです。

パリ万博に加えてヨーロッパ各国を歴訪した渋沢栄一は、はじめての海外で長らく鎖国政策が続いていた日本では考えられないような先進的な近代西洋社会の現状を目の当たりにします。

日本を出て中国を経由しヨーロッパへと訪れた経験は渋沢栄一の価値観を大きく揺るがすものでした。のちに彼は「航海中、各地に寄港して視察したがいずれもはじめて接する外国の風物のため、一つとして珍しからぬはなく、中には眼を瞠(みは)らしむるものも少なくなかった」と振り返っています。