(本記事は、島崎晋氏の著書『「お金」で読み解く日本史』SBクリエイティブ、2018年5月15日刊の中から一部を抜粋・編集しています)
明治の殖産興業を支える巨大組織に変貌
近代国家をつくり上げるには、銀行の存在が不可欠だったが、日本の法令上で銀行の名が登場するのは、明治5年(1872)11月に公布された国立銀行条例を嚆矢とする。
これはまだ準備段階にすぎず、本格的な民間銀行が誕生するのは4年後の8月に右の条例が改正されてからで、その年のうちに早くも三井銀行と安田銀行が成立した。
その後の法整備の進展にともない、民間の普通銀行および特殊銀行の設立が相次ぐが、江戸時代の両替商から転身した例は、三井銀行と安田銀行くらいだった。
異業種からの参入や幕末維新の動乱に乗じた新興勢力として住友銀行と三菱銀行が加わり、のちの四大財閥が顔をそろえるかたちとなる。
両替商にせよ他業種にせよ、財閥として名をなすにいたった業者に共通するのは、明治政府とうまく折り合う関係にあったことだ。彼らにしばしば政商という言葉が用いられる。
政商とは、政府と結びつきの強い特権商人を指し、幕末の動乱で多くの御用商人が没落するなか、三井家も危機的状況に見舞われたが、いち早く新政府側に走ったことが幸いし、破産を免れただけでなく、政商へと転じることができた。
国策に応じた事業で利益を上げていく
その後、明治9年(1876)には三井銀行と三井物産が発足し、明治21年(1888) には官営三池炭鉱の払い下げを受けたのをはじめ、鐘淵紡績、王子製紙、東芝の前身にあたる芝浦製作所、富岡製糸場など様々な産業へと投資を拡大するにおよび、政商から財閥へと脱皮を図った。
三井家が呉服店から始まったのに対し、住友家は銅山経営をスタートとし、設備の老朽化で経営難に陥った幕末の危機は、優秀な外国人技師を雇うことで乗り切り、明治24年(1891)の代替わりを境として本格的多角経営に乗り出した。
その頃には銅山がもたらす公害が社会問題にまで発展したことから、銅山経営から銀行や製造部門へと主軸を移すことで、政商から財閥へと転じたのだった。
三井・住友両家に比べると、三菱の歴史は浅く、土佐の出身で坂本龍馬と同じ時期にのし上がった岩崎弥太郎を始祖とする。
海運業に始まり、鉱業や造船、商業、金融、不動産など、常に国策に応じた事業拡大を進め、三井・住友の両家と並ぶ三大財閥の一角に食い込むことに成功した。
四大財閥というときには、右の三家に安田家が加えられる。
安田家の礎を築いた安田善次郎は小商人の出身だったが、わずか一代にして銀行や保険など金融業を中心とした財閥と化し、現在のみずほ銀行、みずほ信託銀行、損害保険ジャパン日本興亜などがその後裔にあたる。
財閥はまだしも、政商という言葉には汚職にまみれた響きがつきまとい、儲けがあれば犯罪一歩手前までやるという悪いイメージがある。現に三井物産と三菱商事は中国とイランを結ぶアヘン貿易で激しく競い合った。
当時の世界で、アヘン貿易ほどコスパのよい商売はなかったのである。