「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」……総合結婚情報雑誌・ゼクシィのCMのひとことです。

結婚しなくても幸せになれる、とはよく言いきった!など、とても話題になりましたね。

かつての日本では、非婚の時代があったのです。また、今増えてきている「共働き」があたりまえでした。

今回は、江戸時代の結婚・恋愛・お家の制度をもとに、結婚と共働きについて紐といてみましょう。

江戸時代の『家』は、家族ではなく企業に近かった?

江戸時代における『家』とは、現代の家族とは違い、むしろ同族経営の中小企業のようなものでした。

当時仕事は家業として家についていることが多く、世襲によって継承されました。

有名な例だと、三井家。三井高利が開業した呉服の「越後屋」は、代々世襲によって経営されており、11家で共有財産・共同経営を実施。大財閥となりました。

この越後屋は今では三越百貨店になっています(三越伊勢丹ホールディングスの歴史)

また、歌舞伎の成田屋。市川宗家とも呼ばれます。家制度が長く続いている歌舞伎の世界でも最も長く家が続いています。

従って、生活の糧としての仕事を維持するためには、どうしても『家』を維持していく必要がありました。

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(画像=『あそびのノート』より引用)

嫁取りは、次期社長の右腕捜し

従って、当主(親)にとって嫡男の結婚は、次世代の副社長か専務を選ぶようなもの。

企業経営の器量があるか、自社にとって価値ある実家を持っているか、互いの会社(家)の釣り合いはいいか、など、嫁の選定は一大事業です。

ですから、結婚は親が決めるもの。息子自身は、お嫁さんの顔も知らずに祝言を迎えることが普通でした。

現代風に言えば、結婚を親が決めるのは理不尽とも思いますが、しかし会社の専務の選定だと思えば、印象は違ってきますね。

こうして選ばれた妻は、いわば優秀な重役候補です。

現専務の姑に鍛えられ、世代交代後は夫婦で会社経営に精を出します。

家族と家来と使用人、それぞれの生活を維持するようにがんばらなければなりません。

また、こうして選ばれた妻(正室)の地位は、揺るぎないものでした。

例えばそれは、跡取りの存在に現れます。

妻(正室)に子がない場合は側室を迎えますが、側室はたとえ妻(正室)が死去した後でも、妻(正室)にはなれません。違う役割の者と見なされていたからです。

つまり妻(正室)は、子がいるいないにかかわらず、その地位は確保されたのです。

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(画像=『あそびのノート』より引用)

意外に高かった女性の地位

武家・商家にかかわらず、妻が結婚時に持ち込んだ持参金はずっと妻のもので、夫が勝手に使うことは許されませんでした。

もし使ったとしても、離縁になったら全額返さなければなりません。

現在の法律でも、妻が持ち込んだ財産を離婚時に明確に保持するのは難しいときがあります。

しかし当時は、どの身分にあっても、女性の持参金は女性のものでした。

ただし、江戸時代が男尊女卑だったと言われるひとつの理由として、妻だけに強いられた不義密通の罪があります。

女性は婚外で男性とつきあえば罪に問われましたが、夫は容認されました。

しかしこれには理由がありました。

先に述べたように結婚は家を存続するための制度。妻が生む子どもは、明確に、夫の子でなければなりません。

DNA鑑定のない時代、それを担保するには、女性の側の性生活を管理するしかなかったのです。

逆を言えば、特定の仕事を継承する必要のない人達には男女ともに性生活の管理の必要性もなかったようです。

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(画像=『あそびのノート』より引用)

庶民は性的にも解放されていた

庶民にとって、結婚はしてもしなくてもいいものでした。

当時はキリスト教を主体とした西欧文化の影響が薄かったので、女性の処女性はあまり価値を重視されず、従って性的にも自由。

農村部では夜這いとして自由な性交渉が一般的だったのもその現れのひとつです。

全員が働き、自分の食べるもの、着るものをまかなっていたので結婚しないと生活ができない、ということもありません。

離婚時に夫から妻に与える三行半(みくだりはん。離縁状・離婚届のこと)は『再婚許可証』でもありました。

これが法制化された理由は、離婚後の女性の多くが、再婚を含め、自由な男女関係を結んでいたからだと考えられます。

恋愛は自由

恋愛は自由でした。それは例え武家のように結婚が必須であっても、男性は婚外で恋愛ができました。

またその相手は、異性でも同性でも構いません日本には同性愛をタブー視する習慣はなく、それが起こったのは西洋文化が浸透する明治期以降です。

もうひとつ興味深いのは、遊女との結婚について。

身請け、もしくは年季明けの遊女を妻にする例は少なくなかったと言います。

それなりの遊女には高い教養があり、妻としての資質があると見なされていましたので、結婚後に差別を受けることもなかったようです。

こうした女性は職業柄子どもに恵まれないと言われていましたので、これは当時、子を産むことが妻の必須条件ではなかったことの例でもあります。

ほぼ全家庭が共働き・子どもの有無が問われない時代があった?!江戸時代から見る、令和の女性の働き方
(画像=『あそびのノート』より引用)

現代との共通点、そしてヒント

当時の庶民は、男女共にほとんどが非正規雇用か、自営でした。

つまり男女の別による職業的待遇の違いというものは、現在より小さかったと推察できます。

一方、女中などの女性の仕事は、中間(武家に仕え、警固、供回りなどをする)などの男性の仕事と比べ、給金が良かったという記録があります。

当時も、社会は女性の労働力を必要としていました。

また、経済的にも男性から自立し得た当時の女性は、その気になれば、一人で生きていく事もできました。

現在では女性が働くためのネックになっている子育ても、家族や近隣のつながりの強い当時では、祖父母や、近隣の住人、さらには大きい子どもが小さい子供の面倒をみるなど、様々な手代わりがありました。

こうしてみると、豊かになった現在の方がとても窮屈に思えます。

現代は、子どものいない女性、子育てを人に託さなければならない女性が、圧力を感じる社会になっていないでしょうか。

でもこの考えは、決して日本古来のものではありません。むしろ日本は古来、女性が自分の器量で生きて行けた社会だったよう。

女性にとっての自由や平等は、西欧から来ると思っている人が多いとしたら、それは間違っているかもしれません。明治以降、西欧文化が入ってきてから作られた考えです。

令和の時代になり、あらためて女性の働き方を見つめなおしてみると、共働きは夫と一緒に「家庭」を運営していく共同経営者。

子どもがいてもいなくても、子育てや家事を人に手伝ってもらっても、あたりまえのように思われる時代がやってくるはず。

今あらためて江戸時代の女性の働き方に心を寄せてみてもよいかもしれません。