「死にたい」と思う気力すらなかった

<後編>「僕らは一緒かも」23歳で逝った京大院生が遺した“死にたい人”への想い|山口雄也×yuzuka
(画像=『女子SPA!』より引用)

筆者と山口雄也さん

 塞ぎ込むうちに、その嫌悪感や不信感は、周囲の近しい人にも向けられるようになった。 「何も信じられなくなりました。ひどい副作用だけが出るくせに、一向に病気を治す気配のない薬も飲みたくなくなった。だから、薬も全部ゴミ箱に捨てました。飲まなかったらどうなるかは分かっていたし、もしかしたら死にたかったのかもしれない。だけど正直、はっきりと『死にたい』と思う気力すらなかった。  ただ、どうしてこんなことで死ななければならないのか、どうせ死ぬのだろう、だけど本当に死ぬのだろうかと、頭の中でぐるぐると考えて、自分の周りすべてがデタラメのような気持ちになりました」  脱力感に身を任せて送る入院生活の中、薬の内服を止めていることはすぐに発覚した。すぐに主治医と面談することになった。 「呼び出されて、主治医は諭すように『治療方針に従えないなら別の病院に行ってくれ』と言いました。今まで溜まっていたものが爆発して、全部を伝えたのを覚えています。先生は黙って聞いてくれました」  山口さんの母は、泣いていたという。そのときの彼は、治療も、人間も信じられなくなっていた。話し合いが終わっても、心はぼんやりとしたままで、「生きたい」とは思えなかったという。

「やりたいことをやりきった」死生観が変わった時期

「だけど最終的には生きるために治療を継続しようとなりました。精神科の先生にも見てもらって、 睡眠導入剤と向精神薬の服用を開始したのもこの頃です。臨床心理士のカウンセリングもあって、それが結構救いになりました」  1年ほどかけて、山口さんの心は、少しずつ落ち着いていった。その後、奇跡的にがんが軽快し、退院することになるが、コロナのせいで誰とも会えなかった。 「そんな状況だったけど、もうどうせ死ぬなという感覚があって、そこからの1年間は『いつ死んでもいいな』と思えるように過ごそうと思いました。こんなこと言ったら殺されるけど、あちこち旅行に行きました。コロナで死んでもいいと思っていた。  とにかく行きたかったところに行き、美味しいごはんを食べ、闘病記の出版も含め、自分のやりたかったことを全部やりきりました。そのあたりから、死生観のようなものが微妙に変わった気がします」  と、彼は言う。 「やりたいことをやりきった」そう言った彼の顔は、晴れやかだった。まるでこれから先のことが分かっていたかのように、彼は最後の入院が決まるまで、がむしゃらに言葉を吐き出して文章にする作業に没頭したという。