中東のペルシャ湾岸に位置するクウェートは、小さい都市なので一日で廻ることができます。中東旅行の帰りにでもちょっと寄り、空港でレンタカーして首都のクウェート・シティへドライブ!気持ちよいドライブになるかと思います。
中東クウェートの位置
クウェートは、中東ペルシャ湾岸諸国に位置するアラブの小国です。
東はペルシャ湾に面しており、北・西・南をイラクとサウジアラビアに接しています。
その小さい国土の中で、人の住んでいる都市は更にわずかなクウェート・シティがほとんどです。こちら以外の地域は砂漠に覆われています。
同じく中東湾岸地域にあるドバイやドーハなど、観光客が挙って出かける派手な地域とは異なり、地味なイメージのクウェートは、確かに観光名所も少なく、人々の雰囲気から昔ながらのベドウィン(砂漠の民)気質が強く残っているように感じられます。
世界屈指の産油国
クウェートの主要産業は他の湾岸諸国同様に原油です。小国ながら世界第7位(2020/6時点)の石油埋蔵量があり、天然資源国の一つに数えられます。国民のほとんどが、ホワイトカラーの国営企業に従事し、その他の不足した労働は主にアジア人が補っています。
クウェートの歴史と侵攻
クウェートと聞くと、「侵攻」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。「クウェート侵攻」は、イラクがクウェートを侵攻した1990年8月に発生した事件です。これは、後に湾岸戦争に発展します。
イラクによる「クウェート侵攻」は、突如として始まったかのように語られがちですが、そこには長い歴史と当時のイラク情勢、クウェートの思惑がありました。
クウェートは、16世紀から20世紀にかけて、オスマン帝国(当時統治していたのは、わずか200km先にある現イラクのバスラ)や現サウジアラビアの支配下にありましたが、20世紀に入ってイギリスの植民地になると、ほどなく国家として独立を果たします。しかしイラクは、オスマン帝国時代に現イラクの土地であったことから、かねてから「イギリスに不当に分断された」と、クウェートの領有権を主張していました。
そのような中、1980年に始まったイラン・イラク戦争時に、クウェートは資金面でイラクを支援しており、イラク南部の港湾都市バスラが戦闘により被害を受けたときは、クウェート港を開放するなど、全面的に協力しました。
終戦後、国内情勢が安定せず国民の不満が募るなか、イラクはクウェートへの負債も返済せねばならず、唯一の資金獲得源である石油の価格上昇を目的に、OPECへ減産を求めます。しかし、OPECはイラクの求めに応じず、それどころかクウェートとサウジアラビアはイラクを裏目に石油を増産し続けました。
当時のイラク大統領だったフセインは憤慨し、クウェート国境付近に軍隊を動員して威嚇しますが、アラブ諸国は無視。窮地に立たされたフセインは、上述した「もともとクウェートはイラク」と、抱え込んだ負債を帳消しにすることを目論んで侵攻したという経緯があります。
産油国は、原油価格によって国全体が大きく揺さぶられ、資源の呪いにより、あっという間に戦争まで発展する危険性を帯びているということが分かった事例でした。
その後、半年もたたない1991年1月、国連の非難決議のもと、アメリカを中心とした多国籍軍とイラクとの間で「湾岸戦争」が勃発し、1992年2月、クウェートはイラクによる占領から解放されています。
決して遠くはない過去に、そのような事件のあったクウェートは、どのような都市なのでしょうか。クウェート国際空港で車をレンタルし、クウェート・シティへ向かいます。
クウェート・シティの見どころ
クウェート・タワー
先ず向かうのは、クウェート・タワーです。3基の塔が並ぶ、クウェートのシンボル的タワーです。
第一の塔は球体がニつ付いています。高さ187mあり、レストランと展望台があります。展望台はゆっくり回転します。
第二の塔は一つの球体が付いており、高さおよそ146mの給水塔となります。第三の塔は、電力供給機器が収められています。
クウェート・シティも元は砂漠ですので、気候帯の特徴から水不足は大きな課題の一つです。このタワーは最大4,500㎥の貯水能力を有し、観光客を集めるためだけのオブジェではなく、機能的に稼働して市民生活の基盤となっています。
クウェート・タワーの周辺は、ペルシャ湾に面して広い公園があります。
美しい海の眺めと、その先に見える高層ビルの図が幻想的です。