今日は悲しかったですねえ。いや、ちゃんと悲しかったですよ。

 病院で働いている人が家族と離れて暮らさなきゃいけなくなった。医療従事者の子どもが学校で差別的な扱いを受けた。

 当時、そういう話はいくらでも聞こえてきたし、私にとっては他人事だけどすごく胸を痛めた記憶だってあります。それをそのまま再現したら、そりゃ事実関係が悲しいわけだから、悲しい気分にもなるものです。

 嫌な言い方になるけど、コロナ禍を扱う上で作り手側が「これやっときゃ押し切れるだろ」という目論見だったことがバレちゃってるんだよな。それこそ見る側の脳内補完に頼り切っている。というか、結果的にこっちで勝手に知ってる誰かに当てはめて悲しい気分になるような仕組みになってる。

 なぜそうなってるかといえば、これが米田結(橋本環奈)という個人の物語ではないからです。今日、改めて思ったけど、この米田結という人がどういう人なのか、全然知らないんだ。

 なんで病院で働いてるのかもよくわからないし、なんでわざわざ一家で神戸に来てたのかもわからない。いちおう説明はされているけれど、まったく納得できるような理由ではなかったから、腑に落ちてない。そして描かれた被災地にもレッドゾーンにも、米田結はいない。人づてに話を聞いただけ。

 だから物語の中で、米田結という人に実存がない。こういうことが報じられていて、米田結という個人のケースではこうだった、というパーソナリティが何もない。この人は何も感情を蓄積していない。単なる人の形をした虚像でしかない。

 人の形をした虚像が、実際私たちの記憶に新しい「悲しい配置」に置かれていて、それを見せられた私たちは知っている誰かをその虚像に当てはめて、悲しい気分になる。

 NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』が徹底して私たち視聴者を「納得させなかった」ことが、「悲しみ」という感情の揺れを呼び起こすことに作用している。