はー、終わりました。NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』、今日で最終回。
結さん(橋本環奈)は常に与える側であり、与えられる側は問答無用でそれを受け入れ、感謝しなければならない。そういうドラマでしたね。振り返りましょう。
「みんなで育てる」
詩ちゃんの件、失敗してるなぁと思いました。結さんと詩ちゃんの関係性に根拠がないんだよな。「家族だから」「家族になるから」で押し通してるわけだけど、これって「孤児なら家族をほしがって当然だろ」「誰でもいいから家族になってほしがってるだろ」という決めつけの上に成り立ってる展開なんですよね。
アユが詩ちゃんに後見人になることを伝えたとき、詩ちゃんは「すっごい喜んでた」そうですけど、なんで「すっごい喜んでた」かを説明する必要がないと思ってる。これを説明せずとも伝わるという前提で作劇することは、遺児に対する差別なんですよ。その環境だけを描写して「与えられる側である」「ほしがっている者である」と決めつけることは下品だし不遜なんです。
そして、詩ちゃんが心を開いたのはアユ(仲里依紗)という個人であって、新しく見つけた居場所は米田家ではなくKOGです。
だから、アユが児相に何か言われて詩ちゃんの面倒を見ることをためらったとしても、「そんなのアユらしくない」と言う立場にいるのはムータンたちKOGの従業員であるほうが自然です。「みんなで育てる」も、KOGメンバーが言うなら説得力があるし、ギリ詩ちゃんの意志にも沿っているように見える。
詩ちゃんという孤独な少女を登場させて、「血縁のない家族」という像を提示しようとしたことはわかります。その尊さ、美しさを描こうとしたのに、結局はアユと結の「血縁」で縛ることしかできなかった。最終回まで来て、やろうとしたことが実現できていない、そういう『おむすび』というドラマの弱さを感じました。「米田結=与える者」という定義さえなければ、もっと柔軟に詩ちゃんのエピソードを作れたはずなんです。