(本記事は、島崎晋氏の著書『「お金」で読み解く日本史』SBクリエイティブ、2018年5月15日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

経済を握る大商人が力を持った

江戸時代の身分といえば、「士農工商」という言葉が定着している。

だが、そこには大きな誤解があって、「士農工商」は序列を示す言葉ではなく、武士・百姓・職人・商人という身分の違いを示すにすぎず、武士以下の三者は物を作るかどうかの違いで、物を作らない商人は下に置かれたが百姓が商人よりも身分が上ということではなく、身分は大きく分けて武士とその他という二段階が実情だった。

江戸時代にあっても、実権を握っていた徳川将軍家とはいえ、日本の首都はあくまで天皇のいる京都で、江戸はあくまで政治の中心という扱いだった。

徳川将軍家は武家の棟梁でもあるが天皇から政治を委託された存在である。政治への参画が武士にしか許されていなかった現実からは、武士を最高の身分と位置づけるのも間違いではない。

武士が財政難に苦しんでいたのは、全国の諸大名や徳川将軍家も同様であったが、それとは逆にもっとも懐の温かかったのは、「士農工商」の末尾に置かれた商人だった。

経済力の点から見れば、武士が商人の後塵を拝していたのは紛れもない事実だった。

商人といっても業務の幅は非常に広く、三井財閥の前身にあたる三井越後屋(越後屋呉服店)のような豪商もいれば、棒手振も商人といえば商人である。

米を金銭に換える札差、金貨や銀貨を小銭に替える両替屋なども大繁盛した。札差が繁盛したのは幕府の給与制度のおかげであった。

旗本と御家人に対する蔵米には東北や関東の天領から徴収された年貢があてられ、隅田川沿いの浅草御蔵などに収蔵された米を、旗本・御家人たちは指定された日に受け取り、御蔵近くに軒を連ねる米屋に運んで換金してもらうというのが当初のスタイルだったが、いつしか米屋が受け取りから換金までの一切を代行するようになり、札差と呼ばれるようになった。幕府が規定した手数料がかかるが、旗本・御家人たちには、やむをえない選択であった。

同時に、旗本・御家人たちはほぼ例外なく、札差に借金をするようになっていく。

同じ米でも、身分の上下で米の質が違い、下であればあるほど換金レートが悪くなる。そのため期待した金額との差額を借金するのが普通となり、札差は労することなく、莫大な利息を得ることができたのだ。

住友財閥の前身である住友家も延享3年(1746)に江戸浅草に札差店を開いている。

両替屋も莫大な利益を得る商売だった

一方の両替屋が繁盛したことについても、幕府の採った制度と関係があった。

江戸幕府は金・銀・銭の三貨制度を採ったが、金貨や銀貨は大金すぎて、よほどの大店でもない限り扱うことがなく、庶民が買い物する小店や飲食店で小判で支払いができる店はなく、小判を使うこともできない。

そんな人たちのためにあったのが両替屋で、少々高めの手数料を取られても換金せねば使えなかった。銭価は相場によって変動したため、両替屋はその差益も得て、かなりの収益を上げることができた。

こうした両替屋が繁盛したのは大坂・京・江戸の三都で、成功を遂げた者たちはさらなる上を目指して、事業を拡大していった。

住友家にしても飛躍のきっかけは、京での銅商いにあり、大坂に本拠を移してからは銅の精錬と海外貿易、さらには銅山の運営、江戸・長崎への出店、両替・為替業への進出と、ひたすら拡大路線を突き進んだ。

住友家の金融業への進出は寛文10年(1670)で、大坂に幕府公金の出納・貸し付けを担う十人両替という組織が設立されたとき、その一員に選ばれたことをきっかけとした。

住友家の歩んだ道をなぞるように、多くの商人たちが多角経営に乗り出し、江戸時代中期には、現在の銀行とそっくりの業務内容をこなす大店がいくつも成立していた。

彼らはただ稼ぐだけでなく、三都のどこででも気前よく散財した。大店の主人ともなればその年収は大名をもしのぎ、手代クラスでも武士の1000石相当の年収を得ていたという。

武士は体面保持のために金を使わざるをえなかったが、町民は体面を気にする必要がなく、飲食や遊興など、その瞬間を楽しむために使うことができた。

このように武士と商人の間の財力の差に埋めがたい格差が出てくると、武士は商人の足元にもおよばなくなり、頭を下げて借金せねばならなくなった。幕府の崩壊以前に武士を中心とした封建制度は、すでに崩れていたのである。