確かにそのように内心で思うことは自由だし、だからこそ裁判を起こしたのでしょう。しかしながら、この「悔しい」という言葉には、被害を訴えた女性の告発自体があたかも不当であり虚構であったかのように印象付けることを期待しているように読めてしまいます。
周りの人間は俺がシロだと知っている、それゆえに世間にそれが伝わらないことが「悔しい」のだ、と。
ですが、この強い感情表現は勇み足でした。世間は、自分で起こした裁判を自分で取り下げた松本の行為を、とても不思議に思っているからです。
つまり、正当に戦った人間の発する、「悔しい」ではないのです。
◆「前向きな何かを感じてくれるなら」他ならぬ自分が動きたいのでは?
②<もしそれで前向きな何かを感じてくれるなら、伝えたい。その思いがあって、この場を設けてもらいました。>
これは完全に世論を読み違えています。なぜなら、まだ世間は松本人志から「前向きな何か」についての発言を聞きたいとは思っていないからです。
厳しい言い方をすれば、まったく禊(みそぎ)が済んでいないと見ている。その禊とは、裁判を通じて、法の下で白黒つけることであったはずですが、その機会を自ら途中で放棄してしまいました。
ここで松本は読み手に向けて「前向きな何かを感じてくれるなら」と言っていますが、それは「前向きな何か」に向けていちはやく動き出したい、他ならぬ自分のことを言っているのではないでしょうか。自分の先走る思いを、あいまいな他者のものだとすり替えている点が姑息(こそく)なのです。
◆裁判が「どんな結果なら納得」という勘違い
③<世間の皆さんがどんな結果なら納得するのか。>
裁判についてのコメントですが、これも勘違いも甚(はなは)だしい。何のために裁判が行われるのか全く理解していないことが浮き彫りになっています。