2018年9月15日、享年75歳でこの世を去った女優の樹木希林さん。今回は樹木希林さんの本名から立ち、学歴から、生前の逸話や生い立ちについてまとめました。乳がんや網膜剥離などの病を乗り越え、女優として在り続けた樹木希林さんの人生を振り返ります。

樹木希林の本名は「内田(旧姓:中谷)啓子」?年齢(享年)は?

本名:内田(旧姓:中谷)啓子
生年月日:1943年1月15日
没年月日:2018年9月15日(享年75歳)
出身地:東京都
血液型:A型

樹木希林さんは、高校生の頃、演劇部に所属したことをきっかけに演技に興味をもちます。怪我により大学進学を断念せざるを得なくなったことから、当時研究生を募集していた文学座付属演劇研究所に試験を経て、入所しました。

その後、「悠木千帆」の名で女優生活をスタートさせ、早くから名女優・杉村春子さんに気に入られ、付き人を務めました。1963年の文学座分裂時も杉村春子さんの計らいで文学座に残り、1964年に森繁久彌さん主演のテレビドラマ『七人の孫』へのレギュラー出演をきっかけにブレイクします。

1965年には文学座の正座員となりましたが、翌年には退団します。その後は名作ドラマへ立て続けに出演し、不動の人気を獲得しました。

プライベートでは1964年に俳優の岸田森さんと結婚しましたが、1968年に離婚。1973年に内田裕也さんと再婚しますが約1年半で別居し、その後生涯別居生活を続けました。

そして2018年9月15日、東京都渋谷区の自宅で家族に看取られながら死去、75歳でした。乳がんや網膜剥離などの病を乗り越え、亡くなる寸前まで女優を貫き通した樹木希林さん。今回はそんな彼女の生い立ちや経歴を振り返ってまとめてみました。

旧芸名を売却?!「樹木希林」の芸名の由来は?

悠木千帆から樹木希林に改名するときには、とても珍しいエピソードがあります。

それは、1977年4月1日に「日本教育テレビ」から「全国朝日放送」(テレビ朝日)への社名称変更記念特別番組『テレビ朝日誕生記念番組・わが家の友だち10チャンネル・徹子のナマナマ10時間半完全生中継』内の有名人が私物を競売に賭けるオークションコーナーでのことです。

出演者であるにも関わらず出品物を用意してこなかった樹木希林さんは「売るものがない」との理由で、あろうことか当時の自身の芸名であった「悠木千帆」という名前を競売に賭けました。

共演者からたしなめられる一幕もありましたが、それを振り切り、1円から始まったこのオークションは結局、通りすがりの服飾デザイナーの女性が2万200円で実際に落札し、落札金はチャリティーとして寄付されました。

その後、本名である「内田啓子」を名乗ることも考えましたが夫の内田裕也さんに止められ、改めてテレビ局プロデューサー等も巻き込んだ会議が開かれ様々な案が出されましたが、結局、辞書から一文字ずつ拾いながら現在の芸名である「樹木希林」に決まりました。

由来は「樹や木が集まり希な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」で、樹木希林さん自身も、響きも「危機感」に繋がるようなズッコケた語調で自分らしいととても気に入っていたそうです。

樹木希林の生い立ちは?

あまり自身については多くを語らない樹木希林さん、その生い立ちについて調べみました。

母親はキャリアウーマン!

樹木希林さんのデビュー当時、母親が神田神保町で「東宝」というカフェを経営していたことは知り人ぞ知る話です。

樹木希林さんの父親として知られている男性は実は実父ではなく継父で、この男性と知り合った当時母親にはすでに別々の男性との間に2人の娘がいたそうです。その姉の方が樹木希林さん。

母親はカフェ経営以外にもアパート経営や仕立て屋、料理店経営などを経験しており、戦前戦後の時代を逞しく生き抜いたまさに元祖キャリアウーマンと呼べるかもしれません。

父親は「ヒモ」状態だった?

樹木希林さんの父親は元々警察官をしていたそうですが、母親との結婚後その仕事を辞めてしまったそうです。仕事といえば母親の経営するカフェをたまに手伝う程度で、それ以外の時間は趣味の琵琶演奏に没頭していたそうです。

現代で言うところいわゆる「ヒモ」状態だったようですが夫婦仲は大変良好で、後に樹木希林さんも語っているように温厚で優しい父親に母親は惚れ込んでいたそうです。