インタビューから数週間後…
入院、治療、退院、再発、入院、治療、退院、再発……。果てしない希望と絶望が、まるで波のように引いては押し寄せる。彼はそのたび、溢れる感情をできるだけ丁寧に言葉にして、インターネット上に残し続けた。 抗がん剤治療が始まり髪の毛が抜け落ちても、精神的に不安定になっても、伝えることをやめなかった。彼のひたむきな姿に、元気付けられる人は多かったはずだ。 彼がツイートを投稿するたびについた何百件という応援の言葉や、アプリがフリーズしてしまうほどに届いていたDMが、その影響力の強さを物語っている。誰もが彼を見守り、当たり前のように、彼に奇跡が起こると信じていたし、もちろん私もその1人だった。 だけどインタビューが終わって数週間、しばらく更新がなくて心配していたツイッターに投稿されたのは、彼のお父様からの言葉だった。 ===== 【ご報告】 雄也の父です。皆様に大切なご報告があります。去る6月6日の朝、雄也は父と母に看取られて天国へ旅立ちました。生前は沢山の応援を頂きありがとうございました。この場をお借りして御礼申し上げます。 ===== そのツイートを目にした私は、頭をがつんと殴られたような感覚に陥り、しばらく固まった。彼とのLINEを読み返す。数日前から既読がついていないことに気づく。駆けつけることもできない自分に無念さが募って、ただただ、スマホの前でぼんやりと座り込んでいた。 数日前、「体調がましになってきたので、もう少しでまたお話ができそうです」と、連絡をくれたところだったじゃない。私も貴方との宿題を終わらせるために、本を読み終えたところだった。聞きたいことをたくさん用意して、いつでも予定が開けられるように待っていたんだよ。 どんな言葉も、もう届かない。その終わりがあまりにもあっけなく感じて、余計に苦しさが押し寄せてくる。彼の「今話さなかったら、次に話すまでに死ぬかもしれないし」という言葉が頭の中によみがえり、何度も何度も、こだましていた。
最初に「死にたい」と思ったときのこと
「もう二度と、帰っては来られない。 生まれてこの方23年、ずっと暮らしてきた自宅。どんなに辛い日も、家に帰れば必ず暖かい布団が僕を待っていた。苦楽を共にした勉強机と積まれた文庫本、小学校の入学祝いに買ってもらったRoland製の電子ピアノ、卒アルや旅先のパンフレットが並ぶ思い出を無造作に詰めこんだ白い棚、その上に置かれたコレクションケースに入ったミニカーの数々。この世で一番好きな空間だった。 そんな大好きな大好きな空間で、最後の最後に記憶の欠片を並べて整頓する時間さえも、僕には与えられていなかった。まもなく遺品となるであろう宝物の数々が余す所なく散りばめられた自室の部屋の電気を消し、扉を閉める瞬間が、いちばん辛かった。 きっともう、ここには戻って来られない。」 (山口雄也さんのブログ「ヨシナシゴトの捌け口」より、「グッドバイ」から引用) 「僕が最初に死にたいと思ったのは、19歳に発覚した最初のがんの抗がん剤治療と摘出手術が無事に終わり、退院した後のことでした」 思わず「退院したあとに?」と聞き返す私に、山口さんは頷いた。 「最初のがんが発覚したときの入院先は、僕の通っていた京大付属の大学病院だったんです。それがとてもありがたかった。友人がたくさん来てくれて、ノートに言葉を残してくれるんです。3か月で総勢60人以上がお見舞いにきてくれました。それに、入院中は勉強と抗がん剤治療の両立に明け暮れ、毎日死に物狂いで生きていました。 それが、退院して普通の生活に戻った途端、どうせ再発するのになんで生きているんだろう。みたいな、無気力な感覚に陥ったんです。当時は生き延びたことが、あんなに嬉しかったのに」