ほんで、ギャルになったのもマキちゃんがそうしたかったからだと言う。

 マキちゃんが「高校出たら東京でギャル雑誌のモデルとかやってみたい」と言っていたという回想シーンがあります。それをもって、このドラマはアユが高校初日に金髪で登校して退学になったことも、天神のゲーセンでカツアゲされているヤンキーをしばいたことも、カリスマとして担がれてもそれを拒否せず徒党を組んで街を闊歩していたことも、全部「マキちゃんならそうするはず」と決めつけています。

 こっちは、話としちゃ通ってはいる。プロットに齟齬や矛盾が発生しているわけではない。でも、無理筋ですよねえ。マキちゃんのセリフを極端に拡大解釈しているし、もしマキちゃんがイケイケのハギャレンみたいなギャル像を語っていたのであれば、回想シーンの描写不足です。いずれにしろ、通ってはいるけど失敗してる。

 あとなんだっけ、現役ハギャレンが米田家の朝食時に勝手に上がり込んできた無礼さと、アユ=大女優のくだりを「大女優って言ったのは付き人」「うわさを広めたのはおじいちゃん」と予防線を張っててセコいなと思ったけど、まあそれはいいや。

■アユが簡単に成功しすぎてるんだよな

 お話として、結ちゃんの「6歳時のトラウマ」を物語の中心に持ってきちゃったことで無理が生じてるように思うんです。

 今回のアユの告白、細部も大筋もむちゃくちゃだと思うけど、道理はわからんでもないんです。中学生が震災で親友を失って、その遺志を継いでギャルになる。構図自体は美しいし、ドラマチックでもある。

 そのアユが半強制的に糸島に連れてこられて、マキちゃんが言ってたようなギャルになろうとするけど、本来マインドがギャルじゃないから苦悩する。パパは反対するけれど、仲間たちとのステキな出会いや元スケバンであるママ(麻生久美子)の理解もあって、徐々にギャルとして暮らす楽しさを日々実感していく。最初はマキちゃんのコピーでしかなかったけど、アユはアユなりのギャルに目覚めて、自立したひとりのギャルとしてカリスマになっていく。そうしていつしか、親友の死を受け入れていく。どうしても行けなかったお墓参りも、カリスマになったときに行ってたらいいんですよ。ギャル姿で、お墓の前で「マキちゃん、ありがと。マキちゃんがなりたかったギャルって、こんな感じかな?」なんて手を合わせてたら、けっこう泣けちゃうと思う。