ヤクザ抗争の歴史の中で最も熾烈を極めた抗争事件といえば、1984年から1989年にかけて勃発した四代目山口組一和会による「山一抗争」がよく知られている。三代目山口組・田岡一雄組長の死後、竹中正久が組長となった四代目山口組の誕生に異を唱え、古参組長らが山口組を離脱し、新たに一和会を結成。両者の間で血で血を洗う抗争へと発展していくのだが、抗争を激化させた最大の要因といえば、85年1月に一和会系組員らが、竹中組長、中山勝正若頭、ボディガード役を務めていた南組・南力組長の3人を同時に射殺したことだろう。

 劣勢に立たされていた一和会側が起死回生に打って出たのだが、それが逆に四代目山口組を強烈に刺激し、一和会は壊滅に追い込まれていくことになった。
 この射殺事件に関わった一和会系傘下組員らは、次々に逮捕され獄へと繋がれることになっていくのだが、その中で1人だけ忽然と姿を消した人物が存在していた。それが9月3日に長崎県警に名誉毀損の容疑で逮捕された後藤栄治容疑者だ。

「世間的には、もう後藤はこの世にいないと言われていたが、実は生存していた。後藤には支援者がおり、九州に潜伏していると囁かれ続けていた。そして今回の逮捕で、やはり生きていたことがはっきりとした」(業界関係者)

 竹中四代目組長ら射殺事件についてはすでに時効が成立しているのだが、後藤容疑者の逃亡期間は40年に及ぶ。いくら支援者がいたとはいえ、それだけの長い間、世間から身を隠し続けることがなぜできたのだろうか。犯罪事情に詳しいジャーナリストはこのような見解を示す。

「後藤容疑者の場合は事件が事件だけあって、顔が割れているので、いくら時代背景の違いを考慮しても、別の名を使い自ら働いて賃金を得ることは不可能だったでしょう。そのため、身を匿ってくれる場所と人が必要となってくる。しかも当時、後藤容疑者を追っていたのは警察だけではなかったはず。山口組組員らも、トップとナンバー2が射殺されているのだから、血眼になって追いかけたことが容易に想像できます。ただ、時間というのは良くも悪くもさまざまなことを風化させます。今回の逮捕容疑である、知人の元市議への名誉毀損行為も完全に身を隠していては起こせない。40年間の歳月の中で、少しずつ地域社会に馴染んでいったのではないかと考えられます」