第5話のレビューで「サクラもマコトも、個人的に真剣に悩んでいる。そして、真剣に取り組んでいる。だから、他人は心を開いてくれるに違いないという、根本的な他人に対する甘えがある」と書きました。「実に傲慢な思い上がりだ」と。
そういう思想がミステリーとしての詰めの甘さとヒューマンドラマとしての説得力のなさの両方に作用していた。そういう作品だったと思います。
あとね、サクラが毎回、行旅死亡人の欄に明らかになったその故人の名前を書いてニッコリするところ、サクラとマコトの2人がキックボクシングでスッキリするところ、この2つのシーンも大嫌いでした。そりゃこんな仕事してりゃストレスもたまるだろうし、仕事が終われば安堵するものでしょう。でも、その顔は他人に見せるものじゃないよ。遺族にその顔は見せられないでしょう。遺族に見せられない顔を視聴者にも見せるべきじゃないんだ。なぜなら、視聴者に対して「遺族に共感して泣け」と言っているドラマなんだから。なんでそういうところ、わからないんだろう。
■ここからは言わなくていい話
ここからは、このドラマを見ていた人にも、このレビューを読んでいる人にも、ほとんど関係のない話だと思います。でも書きたいので書きます。
あのね、これからドラマや映画の世界を目指そうとする若者たちに対してです。
この程度の能力と、この程度のマインドしか持っていない脚本家がゴールデンでオリジナルを任されて、来年には大河も書くことになっていて、すごく理不尽を感じていると思うんです。業界は「日曜劇場」を何本も書いてきたってWikipedia上の実績だけで仕事を回します。それがこの人ではなく、福澤組全体のディレクションの賜物だったとしても、そんなことは使う側には関係ないし、使いやすいのはあくまでこっちです。基本的には、エンタメの世界はそういうふうにできています。
だけど、折れないでほしい。信じて、戦い続けてほしい。こういうハリボテの脚本を、いつか駆逐してほしい。見ている人は見ているから。
どらまっ子のささやかな願いです。終わり。
(文=どらまっ子AKIちゃん)